ことである。
又
我我の――或は諸君の幸福なる所以も兎に角彼等の死んでゐることである。
幻滅した芸術家
或一群の芸術家は幻滅の世界に住してゐる。彼等は愛を信じない。良心なるものをも信じない。唯昔の苦行者のやうに無何有《むかう》の砂漠を家としてゐる。その点は成程気の毒かも知れない。しかし美しい蜃気楼は砂漠の天にのみ生ずるものである。百般の人事に幻滅した彼等も大抵芸術には幻滅してゐない。いや、芸術と云ひさへすれば、常人の知らない金色の夢は忽《たちま》ち空中に出現するのである。彼等も実は思ひの外、幸福な瞬間を持たぬ訳ではない。
告白
完全に自己を告白することは何人にも出来ることではない。同時に又自己を告白せずには如何なる表現も出来るものではない。
ルツソオは告白を好んだ人である。しかし赤裸々の彼自身は懺悔録の中にも発見出来ない。メリメは告白を嫌つた人である。しかし「コロンバ」は隠約の間に彼自身を語つてはゐないであらうか? 所詮告白文学とその他の文学との境界線は見かけほどはつきりはしてゐないのである。
人生
――石黒定一君に――
もし游泳を学ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思ふであらう。もし又ランニングを学ばないものに駈けろと命ずるものがあれば、やはり理不尽だと思はざるを得ない。しかし我我は生まれた時から、かう云ふ莫迦げた命令を負はされてゐるのも同じことである。
我我は母の胎内にゐた時、人生に処する道を学んだであらうか? しかも胎内を離れるが早いか、兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。勿論游泳を学ばないものは満足に泳げる理窟はない。同様にランニングを学ばないものは大抵人後に落ちさうである。すると我我も創痍《さうい》を負はずに人生の競技場を出られる筈はない。
成程世人は云ふかも知れない。「学人の跡を見るが好い。あそこに君たちの手本がある」と。しかし百の游泳者や千のランナアを眺めたにしろ、忽ち游泳を覚えたり、ランニングに通じたりするものではない。のみならずその游泳者は悉《ことごとく》水を飲んでをり、その又ランナアは一人残らず競技場の土にまみれてゐる。見給へ、世界の名選手さへ大抵は得意の微笑のかげに渋面を隠してゐるではないか?
人生は狂人の主
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