侏儒の言葉
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)侏儒《しゅじゅ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時々|窺《うかが》わせる

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)里見※[#「弓+椁のつくり」、第3水準1−84−22]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Abbe' Choisy〕 にこんなことを尋ねた。
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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   「侏儒《しゅじゅ》の言葉」の序

「侏儒の言葉」は必《かならず》しもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々|窺《うかが》わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草《つるくさ》、――しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。

   星

 太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。
 天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我我の地球へ達するのに三万六千年を要するそうである。が、ヘラクレス星群と雖《いえど》も、永久に輝いていることは出来ない。何時か一度は冷灰のように、美しい光を失ってしまう。のみならず死は何処へ行っても常に生を孕《はら》んでいる。光を失ったヘラクレス星群も無辺の天をさまよう内に、都合の好い機会を得さえすれば、一団の星雲と変化するであろう。そうすれば又新しい星は続々と其処に生まれるのである。
 宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火《りんか》に過ぎない。況《いわん》や我我の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起っていることも、実はこの泥団の上に起っていることと変りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環しているのである。そう云うことを考えると、天上に散在する無数の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われるのである。この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたい上げた。
[#ここから3字下げ]
真砂《まさご》なす数なき星のその中に吾《われ》に向ひて光る星あり
[#ここで字下げ終わり]
 しかし星も我我のように流転を閲《けみ》すると云うことは――兎《と》に角《かく》退屈でないことはあるまい。

   鼻

 クレオパトラの鼻が曲っていたとすれば、世界の歴史はその為に一変していたかも知れないとは名高いパスカルの警句である。しかし恋人と云うものは滅多に実相を見るものではない。いや、我我の自己|欺瞞《ぎまん》は一たび恋愛に陥ったが最後、最も完全に行われるのである。
 アントニイもそう云う例に洩《も》れず、クレオパトラの鼻が曲っていたとすれば、努めてそれを見まいとしたであろう。又見ずにはいられない場合もその短所を補うべき何か他の長所を探したであろう。何か他の長所と云えば、天下に我我の恋人位、無数の長所を具《そな》えた女性は一人もいないのに相違ない。アントニイもきっと我我同様、クレオパトラの眼とか唇とかに、あり余る償いを見出したであろう。その上又例の「彼女の心」! 実際我我の愛する女性は古往今来飽き飽きする程、素ばらしい心の持ち主である。のみならず彼女の服装とか、或は彼女の財産とか、或は又彼女の社会的地位とか、――それらも長所にならないことはない。更に甚しい場合を挙げれば、以前或名士に愛されたと云う事実|乃至《ないし》風評さえ、長所の一つに数えられるのである。しかもあのクレオパトラは豪奢《ごうしゃ》と神秘とに充《み》ち満《み》ちたエジプトの最後の女王ではないか? 香の煙の立ち昇る中に、冠の珠玉でも光らせながら、蓮《はす》の花か何か弄《もてあそ》んでいれば、多少の鼻の曲りなどは何人の眼にも触れなかったであろう。況やアントニイの眼をやである。
 こう云う我我の自己欺瞞はひとり恋愛に限ったことではない。我々は多少の相違さえ除けば、大抵我我の欲するままに、いろいろ実相を塗り変えている。たとえば歯科医の看板にしても、それが我我の眼にはいるのは看板の存在そのものよりも、看板のあることを欲する心、――牽《ひ》いては我々の歯痛ではないか? 勿論《もちろん》我我の歯痛などは世界の歴史には没交渉であろう。しかしこう云う自己欺瞞は民心を知りたがる政治家にも、敵状を知りたがる軍人にも、或は又財況を知りたがる実業家にも同じようにきっと起るのである。わたしはこれを修正すべき理智の存在を否みはしない。同時に又百般の人事を統《す》べる「偶然」の存在も認めるものである。が、あらゆる熱情は理性の存在を忘れ易い。「偶然」は云わば神意である。すると我我の自己欺瞞は世界の歴史を左右すべき、最も永久な力かも知れない。
 つまり二千余年の歴史は眇《びょう》たる一クレオパトラの鼻の如何に依《よ》ったのではない。寧《むし》ろ地上に遍満した我我の愚昧《ぐまい》に依ったのである。哂《わら》うべき、――しかし壮厳な我我の愚昧に依ったのである。

   修身

 道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。
    *
 道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与える損害は完全なる良心の麻痺《まひ》である。
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 妄《みだり》に道徳に反するものは経済の念に乏しいものである。妄に道徳に屈するものは臆病《おくびょう》ものか怠けものである。
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 我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は殆《ほとん》ど損害の外に、何の恩恵にも浴していない。
    *
 強者は道徳を蹂躙《じゅうりん》するであろう。弱者は又道徳に愛撫《あいぶ》されるであろう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。
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 道徳は常に古着である。
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 良心は我我の口髭《くちひげ》のように年齢と共に生ずるものではない。我我は良心を得る為にも若干の訓練を要するのである。
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 一国民の九割強は一生良心を持たぬものである。
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 我我の悲劇は年少の為、或は訓練の足りない為、まだ良心を捉《とら》え得ぬ前に、破廉恥漢の非難を受けることである。
 我我の喜劇は年少の為、或は訓練の足りない為、破廉恥漢の非難を受けた後に、やっと良心を捉えることである。
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 良心とは厳粛なる趣味である。
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 良心は道徳を造るかも知れぬ。しかし道徳は未《いま》だ甞《かつ》て、良心の良の字も造ったことはない。
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 良心もあらゆる趣味のように、病的なる愛好者を持っている。そう云う愛好者は十中八九、聡明《そうめい》なる貴族か富豪かである。

   好悪

 わたしは古い酒を愛するように、古い快楽説を愛するものである。我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。唯《ただ》我我の好悪である。或は我我の快不快である。そうとしかわたしには考えられない。
 ではなぜ我我は極寒の天にも、将《まさ》に溺《おぼ》れんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか? 救うことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救う快を取るのは何の尺度に依《よ》ったのであろう? より大きい快を選んだのである。しかし肉体的快不快と精神的快不快とは同一の尺度に依らぬ筈《はず》である。いや、この二つの快不快は全然|相容《あいい》れぬものではない。寧《むし》ろ鹹水《かんすい》と淡水とのように、一つに融《と》け合《あ》っているものである。現に精神的教養を受けない京阪辺の紳士諸君はすっぽんの汁を啜《すす》った後、鰻を菜に飯を食うさえ、無上の快に数えているではないか? 且《かつ》又水や寒気などにも肉体的享楽の存することは寒中水泳の示すところである。なおこの間の消息を疑うものはマソヒズムの場合を考えるが好い。あの呪《のろ》うべきマソヒズムはこう云う肉体的快不快の外見上の倒錯に常習的傾向の加わったものである。わたしの信ずるところによれば、或は柱頭の苦行を喜び、或は火裏の殉教を愛した基督教《キリストきょう》の聖人たちは大抵マソヒズムに罹《かか》っていたらしい。
 我我の行為を決するものは昔の希臘人《ギリシアじん》の云った通り、好悪の外にないのである。我我は人生の泉から、最大の味を汲《く》み取《と》らねばならぬ。『パリサイの徒の如く、悲しき面もちをなすこと勿《なか》れ。』耶蘇《やそ》さえ既にそう云ったではないか。賢人とは畢竟《ひっきょう》荊蕀《けいきょく》の路《みち》にも、薔薇《ばら》の花を咲かせるもののことである。

   侏儒の祈り

 わたしはこの綵衣《さいい》を纏《まと》い、この筋斗《きんと》の戯を献じ、この太平を楽しんでいれば不足のない侏儒《しゅじゅ》でございます。どうかわたしの願いをおかなえ下さいまし。
 どうか一粒の米すらない程、貧乏にして下さいますな。どうか又|熊掌《ゆうしょう》にさえ飽き足りる程、富裕にもして下さいますな。
 どうか採桑の農婦すら嫌うようにして下さいますな。どうか又後宮の麗人さえ愛するようにもして下さいますな。
 どうか菽麦《しゅくばく》すら弁ぜぬ程、愚昧《ぐまい》にして下さいますな。どうか又雲気さえ察する程、聡明《そうめい》にもして下さいますな。
 とりわけどうか勇ましい英雄にして下さいますな。わたしは現に時とすると、攀《よ》じ難い峯《みね》の頂を窮め、越え難い海の浪《なみ》を渡り――云わば不可能を可能にする夢を見ることがございます。そう云う夢を見ている時程、空恐しいことはございません。わたしは竜と闘うように、この夢と闘うのに苦しんで居ります。どうか英雄とならぬように――英雄の志を起さぬように力のないわたしをお守り下さいまし。
 わたしはこの春酒に酔い、この金鏤《きんる》の歌を誦《しょう》し、この好日を喜んでいれば不足のない侏儒でございます。

   神秘主義

 神秘主義は文明の為に衰退し去るものではない。寧ろ文明は神秘主義に長足の進歩を与えるものである。
 古人は我々人間の先祖はアダムであると信じていた。と云う意味は創世記を信じていたと云うことである。今人は既に中学生さえ、猿であると信じている。と云う意味はダアウインの著書を信じていると云うことである。つまり書物を信ずることは今人も古人も変りはない。その上古人は少くとも創世記に目を曝《さ》らしていた。今人は少数の専門家を除き、ダアウインの著書も読まぬ癖に、恬然《てんぜん》とその説を信じている。猿を先祖とすることはエホバの息吹きのかかった土、――アダムを先祖とすることよりも、光彩に富んだ信念ではない。しかも今人は悉《ことごとく》こう云う信念に安んじている。
 これは進化論ばかりではない。地球は円いと云うことさえ、ほんとうに知っているものは少数である。大多数は何時か教えられたように、円いと一図に信じているのに過ぎない。なぜ円いかと問いつめて見れば、上愚は総理大臣から下愚は腰弁に至る迄、説明の出来ないことは事実である。
 次ぎにもう一つ例を挙げれば、今人は誰も古人のように幽霊の実在を信ずるものはない。しかし幽霊を見たと云う話は未《いまだ》に時々伝えられる。ではなぜその話を信じないのか? 幽霊などを見る者は迷信に囚《とら》われて居るからである。ではなぜ迷信に捉われているのか? 幽霊などを見るからである。こう云う今人の論法は勿論《もちろん》所謂《いわゆる》循環論法に過ぎない。
 況《いわん》や更にこみ入った問題は全然信念の上に立脚している。我々は理性に耳を借さない。いや、理性を超越した何物かのみに耳を借すのである。何物かに、――わたしは「何物か」と云う以前に、ふさわしい名前さえ発見出来ない。もし強いて名づけるとすれば、薔薇《ばら》とか魚とか蝋燭《ろうそく》
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