出来る条件を具《そな》えるとは限っていない。もし火星の住民も我我の五感を超越した存在を保っているとすれば、彼等の一群は今夜も亦|篠懸《すずかけ》を黄ばませる秋風と共に銀座へ来ているかも知れないのである。
Blanqui の夢
宇宙の大は無限である。が、宇宙を造るものは六十幾つかの元素である。是等《これら》の元素の結合は如何に多数を極めたとしても、畢竟《ひっきょう》有限を脱することは出来ない。すると是等の元素から無限大の宇宙を造る為には、あらゆる結合を試みる外にも、その又あらゆる結合を無限に反覆して行かなければならぬ。して見れば我我の棲息《せいそく》する地球も、――是等の結合の一つたる地球も太陽系中の一惑星に限らず、無限に存在している筈《はず》である。この地球上のナポレオンはマレンゴオの戦に大勝を博した。が、茫々《ぼうぼう》たる大虚に浮んだ他の地球上のナポレオンは同じマレンゴオの戦に大敗を蒙《こうむ》っているかも知れない。……
これは六十七歳のブランキの夢みた宇宙観である。議論の是非は問う所ではない。唯《ただ》ブランキは牢獄《ろうごく》の中にこう云う夢をペンにした時、あらゆる革命に絶望していた。このことだけは今日もなお何か我我の心の底へ滲《し》み渡る寂しさを蓄えている。夢は既に地上から去った。我我も慰めを求める為には何万億|哩《マイル》の天上へ、――宇宙の夜に懸った第二の地球へ輝かしい夢を移さなければならぬ。
庸才
庸才《ようさい》の作品は大作にもせよ、必ず窓のない部屋に似ている。人生の展望は少しも利かない。
機智
機智とは三段論法を欠いた思想であり、彼等の所謂《いわゆる》「思想」とは思想を欠いた三段論法である。
又
機智に対する嫌悪の念は人類の疲労に根ざしている。
政治家
政治家の我我素人よりも政治上の知識を誇り得るのは紛紛たる事実の知識だけである。畢竟某党の某首領はどう言う帽子をかぶっているかと言うのと大差のない知識ばかりである。
又
所謂「床屋政治家」とはこう言う知識のない政治家である。若《も》し夫《そ》れ識見を論ずれば必ずしも政治家に劣るものではない。且《かつ》又利害を超越した情熱に富んでいることは常に政治家よりも高尚である。
事実
しかし紛紛たる事実の知識は常に民衆の愛するものである。彼等の最も知りたいのは愛とは何かと言うことではない。クリストは私生児かどうかと言うことである。
武者修業
わたしは従来武者修業とは四方の剣客と手合せをし、武技を磨くものだと思っていた。が、今になって見ると、実は己ほど強いものの余り天下にいないことを発見する為にするものだった。――宮本武蔵伝読後。
ユウゴオ
全フランスを蔽《おお》う一片のパン。しかもバタはどう考えても、余りたっぷりはついていない。
ドストエフスキイ
ドストエフスキイの小説はあらゆる戯画に充《み》ち満《み》ちている。尤《もっと》もその又戯画の大半は悪魔をも憂鬱《ゆううつ》にするに違いない。
フロオベル
フロオベルのわたしに教えたものは美しい退屈もあると言うことである。
モオパスサン
モオパスサンは氷に似ている。尤も時には氷砂糖にも似ている。
ポオ
ポオはスフィンクスを作る前に解剖学を研究した。ポオの後代を震駭《しんがい》した秘密はこの研究に潜んでいる。
森鴎外
畢竟鴎外先生は軍服に剣を下げた希臘人《ギリシアじん》である。
或資本家の論理
「芸術家の芸術を売るのも、わたしの蟹《かに》の鑵詰《かんづ》めを売るのも、格別変りのある筈はない。しかし芸術家は芸術と言えば、天下の宝のように思っている。ああ言う芸術家の顰《ひそ》みに傚《なら》えば、わたしも亦一鑵六十銭の蟹の鑵詰めを自慢しなければならぬ。不肖行年六十一、まだ一度も芸術家のように莫迦莫迦《ばかばか》しい己惚《うぬぼ》れを起したことはない。」
批評学
――佐佐木茂索君に――
或天気の好い午前である。博士に化けた Mephistopheles は或大学の講壇に批評学の講義をしていた。尤もこの批評学は Kant の Kritik や何かではない。只《ただ》如何に小説や戯曲の批評をするかと言う学問である。
「諸君、先週わたしの申し上げた所は御理解になったかと思いますから、今日は更に一歩進んだ『半肯定論法』のことを申し上げます。『半肯定論法』とは何かと申すと、これは読んで字の通り、或作品の芸術的価値を半ば肯定する論法であります。しかしその『半ば』なるものは『より悪い半ば』でなければなりません。『より善い半ば』を肯定することは頗《すこぶ》るこの論法には危険であります。
「たとえば日本の桜の花の上にこの論法を用いて御覧なさい。桜の花の『より善い半ば』は色や形の美しさであります。けれどもこの論法を用うるためには『より善い半ば』よりも『より悪い半ば』――即ち桜の花の匂《にお》いを肯定しなければなりません。つまり『匂いは正にある。が、畢竟それだけだ』と断案を下してしまうのであります。若し又万一『より悪い半ば』の代りに『より善い半ば』を肯定したとすれば、どう言う破綻《はたん》を生じますか? 『色や形は正に美しい。が、畢竟《ひっきょう》それだけだ』――これでは少しも桜の花を貶《けな》したことにはなりません。
「勿論《もちろん》批評学の問題は如何に或小説や戯曲を貶すかと言うことに関しています。しかしこれは今更のように申し上げる必要はありますまい。
「ではこの『より善い半ば』や『より悪い半ば』は何を標準に区別しますか? こう言う問題を解決する為には、これも度たび申し上げた価値論へ溯《さかのぼ》らなければなりません。価値は古来信ぜられたように作品そのものの中にある訳ではない、作品を鑑賞する我我の心の中にあるものであります。すると『より善い半ば』や『より悪い半ば』は我我の心を標準に、――或は一時代の民衆の何を愛するかを標準に区別しなければなりません。
「たとえば今日の民衆は日本風の草花を愛しません。即ち日本風の草花は悪いものであります。又今日の民衆はブラジル珈琲を愛しています。即ちブラジル珈琲は善いものに違いありません。或作品の芸術的価値の『より善い半ば』や『より悪い半ば』も当然こう言う例のように区別しなければなりません。
「この標準を用いずに、美とか真とか善とか言う他の標準を求めるのは最も滑稽《こっけい》な時代錯誤であります。諸君は赤らんだ麦藁帽《むぎわらぼう》のように旧時代を捨てなければなりません。善悪は好悪を超越しない、好悪は即ち善悪である、愛憎は即ち善悪である、――これは『半肯定論法』に限らず、苟《いやし》くも批評学に志した諸君の忘れてはならぬ法則であります。
「扨《さて》『半肯定論法』とは大体上の通りでありますが、最後に御注意を促したいのは『それだけだ』と言う言葉であります。この『それだけだ』と言う言葉は是非使わなければなりません。第一『それだけだ』と言う以上、『それ』即ち『より悪い半ば』を肯定していることは確かであります。しかし又第二に『それ』以外のものを否定していることも確かであります。即ち『それだけだ』と言う言葉は頗《すこぶ》る一揚一抑の趣に富んでいると申さなければなりません。が、更に微妙なことには第三に『それ』の芸術的価値さえ、隠約の間に否定しています。勿論否定していると言っても、なぜ否定するかと言うことは説明も何もしていません。只《ただ》言外に否定している、――これはこの『それだけだ』と言う言葉の最も著しい特色であります。顕《けん》にして晦《かい》、肯定にして否定とは正に『それだけだ』の謂《いい》でありましょう。
「この『半肯定論法』は『全否定論法』或は『木に縁《よ》って魚を求むる論法』よりも信用を博し易いかと思います。『全否定論法』或は『木に縁って魚を求むる論法』とは先週申し上げた通りでありますが、念の為めにざっと繰り返すと、或作品の芸術的価値をその芸術的価値そのものにより、全部否定する論法であります。たとえば或悲劇の芸術的価値を否定するのに、悲惨、不快、憂欝《ゆううつ》等の非難を加える事と思えばよろしい。又この非難を逆に用い、幸福、愉快、軽妙等を欠いていると罵《ののし》ってもかまいません。一名『木に縁って魚を求むる論法』と申すのは後に挙げた場合を指したのであります。『全否定論法』或は『木に縁って魚を求むる論法』は痛快を極めている代りに、時には偏頗《へんぱ》の疑いを招かないとも限りません。しかし『半肯定論法』は兎《と》に角《かく》或作品の芸術的価値を半ばは認めているのでありますから、容易に公平の看を与え得るのであります。
「就《つ》いては演習の題目に佐佐木茂索氏の新著『春の外套《がいとう》』を出しますから、来週までに佐佐木氏の作品へ『半肯定論法』を加えて来て下さい。(この時若い聴講生が一人、「先生、『全否定論法』を加えてはいけませんか?」と質問する)いや、『全否定論法』を加えることは少くとも当分の間は見合せなければなりません。佐佐木氏は兎に角声名のある新進作家でありますから、やはり『半肯定論法』位を加えるのに限ると思います。……」
* * * * *
一週間たった後、最高点を採った答案は下に掲げる通りである。
「正に器用には書いている。が、畢竟それだけだ。」
親子
親は子供を養育するのに適しているかどうかは疑問である。成種牛馬は親の為に養育されるのに違いない。しかし自然の名のもとにこの旧習の弁護するのは確かに親の我儘《わがまま》である。若《も》し自然の名のもとに如何なる旧習も弁護出来るならば、まず我我は未開人種の掠奪《りゃくだつ》結婚を弁護しなければならぬ。
又
子供に対する母親の愛は最も利己心のない愛である。が、利己心のない愛は必ずしも子供の養育に最も適したものではない。この愛の子供に与える影響は――少くとも影響の大半は暴君にするか、弱者にするかである。
又
人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている。
又
古来如何に大勢の親はこう言う言葉を繰り返したであろう。――「わたしは畢竟失敗者だった。しかしこの子だけは成功させなければならぬ。」
可能
我々はしたいことの出来るものではない。只出来ることをするものである。これは我我個人ばかりではない。我我の社会も同じことである。恐らくは神も希望通りにこの世界を造ることは出来なかったであろう。
ムアアの言葉
ジョオジ・ムアアは「我死せる自己の備忘録」の中にこう言う言葉を挟んでいる。――「偉大なる画家は名前を入れる場所をちゃんと心得ているものである。又決して同じ所に二度と名前を入れぬものである。」
勿論「決して同じ所に二度と名前を入れぬこと」は如何なる画家にも不可能である。しかしこれは咎《とが》めずとも好い。わたしの意外に感じたのは「偉大なる画家は名前を入れる場所をちゃんと心得ている」と言う言葉である。東洋の画家には未《いま》だ甞《かつ》て落款《らくかん》の場所を軽視したるものはない。落款の場所に注意せよなどと言うのは陳套語《ちんとうご》である。それを特筆するムアアを思うと、坐《そぞ》ろに東西の差を感ぜざるを得ない。
大作
大作を傑作と混同するものは確かに鑑賞上の物質主義である。大作は手間賃の問題にすぎない。わたしはミケル・アンジェロの「最後の審判」の壁画よりも遥《はる》かに六十何歳かのレムブラントの自画像を愛している。
わたしの愛する作品
わたしの愛する作品は、――文芸上の作品は畢竟作家の人間を感ずることの出来る作品である。人間を――頭脳と心臓と官能とを一人前に具《そな》えた人間を。しかし不幸にも大抵の作家はどれか一つを欠いた片輪である。(尤《もっと》も時には偉大なる
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