ない。この逸事の今のわたしにも多少の興味を与えるは僅《わず》かに下のように考えるからである。――
 一 無言に終始した益軒の侮蔑《ぶべつ》は如何に辛辣《しんらつ》を極めていたか!
 二 書生の恥じるのを欣《よろこ》んだ同船の客の喝采《かっさい》は如何に俗悪を極めていたか!
 三 益軒の知らぬ新時代の精神は年少の書生の放論の中にも如何に溌溂《はつらつ》と鼓動していたか!

   或弁護

 或新時代の評論家は「蝟集《いしゅう》する」と云う意味に「門前|雀羅《じゃくら》を張る」の成語を用いた。「門前雀羅を張る」の成語は支那人の作ったものである。それを日本人の用うるのに必ずしも支那人の用法を踏襲しなければならぬと云う法はない。もし通用さえするならば、たとえば、「彼女の頬笑《ほほえ》みは門前雀羅を張るようだった」と形容しても好い筈《はず》である。
 もし通用さえするならば、――万事はこの不可思議なる「通用」の上に懸っている。たとえば「わたくし小説」もそうではないか? Ich−Roman と云う意味は一人称を用いた小説である。必ずしもその「わたくし」なるものは作家自身と定まってはいない。が、日本
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