かぬ聖賢はない。仏家の所謂《いわゆる》善巧方便とは畢竟《ひっきょう》精神上のマキアヴェリズムである。
芸術至上主義者
古来熱烈なる芸術至上主義者は大抵芸術上の去勢者である。丁度熱烈なる国家主義者は大抵亡国の民であるように――我我は誰でも我我自身の持っているものを欲しがるものではない。
唯物史観
若《も》し如何なる小説家もマルクスの唯物史観に立脚した人生を写さなければならぬならば、同様に又如何なる詩人もコペルニクスの地動説に立脚した日月山川を歌わなければならぬ。が、「太陽は西に沈み」と言う代りに「地球は何度何分|廻転《かいてん》し」と言うのは必しも常に優美ではあるまい。
支那
蛍の幼虫は蝸牛《かたつむり》を食う時に全然蝸牛を殺してはしまわぬ。いつも新らしい肉を食う為に蝸牛を麻痺《まひ》させてしまうだけである。我日本帝国を始め、列強の支那に対する態度は畢竟この蝸牛に対する蛍の態度と選ぶ所はない。
又
今日の支那の最大の悲劇は無数の国家的|羅曼《ローマン》主義者即ち「若き支那」の為に鉄の如き訓練を与えるに足る一人のムッソリニもいないことである。
小説
本当らしい小説とは単に事件の発展に偶然性の少ないばかりではない。恐らくは人生に於けるよりも偶然性の少ない小説である。
文章
文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。
又
彼等は皆|樗牛《ちょぎゅう》のように「文は人なり」と称している。が、いずれも内心では「人は文なり」と思っているらしい。
女の顔
女は情熱に駆られると、不思議にも少女らしい顔をするものである。尤《もっと》もその情熱なるものはパラソルに対する情熱でも差支えない。
世間智
消火は放火ほど容易ではない。こう言う世間智の代表的所有者は確かに「ベル・アミ」の主人公であろう。彼は恋人をつくる時にもちゃんともう絶縁することを考えている。
又
単に世間に処するだけならば、情熱の不足などは患わずとも好い。それよりも寧《むし》ろ危険なのは明らかに冷淡さの不足である。
恒産
恒産のないものに恒心のなかったのは二千年ばかり昔のことである。今日では恒産のあるものは寧ろ恒心のないものらしい。
彼等
わたしは実は彼等夫婦の恋愛もなしに相抱いて暮らしていることに驚嘆していた。が、彼等はどう云う訣《わけ》か、恋人同志の相抱いて死んでしまったことに驚嘆している。
作家所生の言葉
「振っている」「高等遊民」「露悪家」「月並み」等の言葉の文壇に行われるようになったのは夏目先生から始まっている。こう言う作家|所生《しょせい》の言葉は夏目先生以後にもない訣ではない。久米正雄君所生の「微苦笑」「強気弱気」などはその最たるものであろう。なお又「等、等、等」と書いたりするのも宇野浩二君所生のものである。我我は常に意識して帽子を脱いでいるものではない。のみならず時には意識的には敵とし、怪物とし、犬となすものにもいつか帽子を脱いでいるものである。或作家を罵《ののし》る文章の中にもその作家の作った言葉の出るのは必ずしも偶然ではないかも知れない。
幼児
我我は一体何の為に幼い子供を愛するのか? その理由の一半は少くとも幼い子供にだけは欺かれる心配のない為である。
又
我我の恬然《てんぜん》と我我の愚を公にすることを恥じないのは幼い子供に対する時か、――或は、犬猫に対する時だけである。
池大雅
「大雅《たいが》は余程|呑気《のんき》な人で、世情に疎かった事は、其室|玉瀾《ぎょくらん》を迎えた時に夫婦の交りを知らなかったと云うので略《ほぼ》其人物が察せられる。」
「大雅が妻を迎えて夫婦の道を知らなかったと云う様な話も、人間離れがしていて面白いと云えば、面白いと云えるが、丸で常識のない愚かな事だと云えば、そうも云えるだろう。」
こう言う伝説を信ずる人はここに引いた文章の示すように今日もまだ芸術家や美術史家の間に残っている。大雅は玉瀾を娶《めと》った時に交合のことを行わなかったかも知れない。しかしその故に交合のことを知らずにいたと信ずるならば、――勿論《もちろん》その人はその人自身|烈《はげ》しい性欲を持っている余り、苟《いやし》くもちゃんと知っている以上、行わずにすませられる筈《はず》はないと確信している為であろう。
荻生徂徠
荻生徂徠《おぎゅうそらい》は煎《い》り豆《まめ》を噛《か》んで古人を罵るのを快としている。わたしは彼の煎り豆を噛んだのは倹約の為と信じていたものの、彼の古人を罵ったのは何の為か一向わからなかった。しかし今日考えて見れば、それは
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