ものである。彼等の最も知りたいのは愛とは何かと言うことではない。クリストは私生児かどうかと言うことである。

   武者修業

 わたしは従来武者修業とは四方の剣客と手合せをし、武技を磨くものだと思っていた。が、今になって見ると、実は己ほど強いものの余り天下にいないことを発見する為にするものだった。――宮本武蔵伝読後。

   ユウゴオ

 全フランスを蔽《おお》う一片のパン。しかもバタはどう考えても、余りたっぷりはついていない。

   ドストエフスキイ

 ドストエフスキイの小説はあらゆる戯画に充《み》ち満《み》ちている。尤《もっと》もその又戯画の大半は悪魔をも憂鬱《ゆううつ》にするに違いない。

   フロオベル

 フロオベルのわたしに教えたものは美しい退屈もあると言うことである。

   モオパスサン

 モオパスサンは氷に似ている。尤も時には氷砂糖にも似ている。

   ポオ

 ポオはスフィンクスを作る前に解剖学を研究した。ポオの後代を震駭《しんがい》した秘密はこの研究に潜んでいる。

   森鴎外

 畢竟鴎外先生は軍服に剣を下げた希臘人《ギリシアじん》である。

   或資本家の論理

「芸術家の芸術を売るのも、わたしの蟹《かに》の鑵詰《かんづ》めを売るのも、格別変りのある筈はない。しかし芸術家は芸術と言えば、天下の宝のように思っている。ああ言う芸術家の顰《ひそ》みに傚《なら》えば、わたしも亦一鑵六十銭の蟹の鑵詰めを自慢しなければならぬ。不肖行年六十一、まだ一度も芸術家のように莫迦莫迦《ばかばか》しい己惚《うぬぼ》れを起したことはない。」

   批評学
    ――佐佐木茂索君に――

 或天気の好い午前である。博士に化けた Mephistopheles は或大学の講壇に批評学の講義をしていた。尤もこの批評学は Kant の Kritik や何かではない。只《ただ》如何に小説や戯曲の批評をするかと言う学問である。
「諸君、先週わたしの申し上げた所は御理解になったかと思いますから、今日は更に一歩進んだ『半肯定論法』のことを申し上げます。『半肯定論法』とは何かと申すと、これは読んで字の通り、或作品の芸術的価値を半ば肯定する論法であります。しかしその『半ば』なるものは『より悪い半ば』でなければなりません。『より善い半ば』を肯定することは頗《すこぶ》るこ
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