R」の存在も認めるものである。が、あらゆる熱情は理性の存在を忘れ易い。「偶然」は云わば神意である。すると我我の自己欺瞞は世界の歴史を左右すべき、最も永久な力かも知れない。
つまり二千余年の歴史は眇《びょう》たる一クレオパトラの鼻の如何に依《よ》ったのではない。寧《むし》ろ地上に遍満した我我の愚昧《ぐまい》に依ったのである。哂《わら》うべき、――しかし壮厳な我我の愚昧に依ったのである。
修身
道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。
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道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与える損害は完全なる良心の麻痺《まひ》である。
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妄《みだり》に道徳に反するものは経済の念に乏しいものである。妄に道徳に屈するものは臆病《おくびょう》ものか怠けものである。
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我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は殆《ほとん》ど損害の外に、何の恩恵にも浴していない。
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強者は道徳を蹂躙《じゅうりん》するであろう。弱者は又道徳に愛撫《あいぶ》されるであろう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。
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道徳は常に古着である。
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良心は我我の口髭《くちひげ》のように年齢と共に生ずるものではない。我我は良心を得る為にも若干の訓練を要するのである。
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一国民の九割強は一生良心を持たぬものである。
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我我の悲劇は年少の為、或は訓練の足りない為、まだ良心を捉《とら》え得ぬ前に、破廉恥漢の非難を受けることである。
我我の喜劇は年少の為、或は訓練の足りない為、破廉恥漢の非難を受けた後に、やっと良心を捉えることである。
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良心とは厳粛なる趣味である。
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良心は道徳を造るかも知れぬ。しかし道徳は未《いま》だ甞《かつ》て、良心の良の字も造ったことはない。
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良心もあらゆる趣味のように、病的なる愛好者を持っている。そう云う愛好者は十中八九、聡明《そうめい》なる貴族か富豪かである。
好悪
わたしは古い酒を愛するように、古い快楽説を愛するものである。我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。唯《ただ》我我の好悪である。或は我我の快不快である。そうとしかわたしには考えられない。
ではなぜ我我は極寒の天
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