ない。この逸事の今のわたしにも多少の興味を与えるは僅《わず》かに下のように考えるからである。――
 一 無言に終始した益軒の侮蔑《ぶべつ》は如何に辛辣《しんらつ》を極めていたか!
 二 書生の恥じるのを欣《よろこ》んだ同船の客の喝采《かっさい》は如何に俗悪を極めていたか!
 三 益軒の知らぬ新時代の精神は年少の書生の放論の中にも如何に溌溂《はつらつ》と鼓動していたか!

   或弁護

 或新時代の評論家は「蝟集《いしゅう》する」と云う意味に「門前|雀羅《じゃくら》を張る」の成語を用いた。「門前雀羅を張る」の成語は支那人の作ったものである。それを日本人の用うるのに必ずしも支那人の用法を踏襲しなければならぬと云う法はない。もし通用さえするならば、たとえば、「彼女の頬笑《ほほえ》みは門前雀羅を張るようだった」と形容しても好い筈《はず》である。
 もし通用さえするならば、――万事はこの不可思議なる「通用」の上に懸っている。たとえば「わたくし小説」もそうではないか? Ich−Roman と云う意味は一人称を用いた小説である。必ずしもその「わたくし」なるものは作家自身と定まってはいない。が、日本の「わたくし」小説は常にその「わたくし」なるものを作家自身とする小説である。いや、時には作家自身の閲歴談と見られたが最後、三人称を用いた小説さえ「わたくし」小説と呼ばれているらしい。これは勿論|独逸人《ドイツじん》の――或は全西洋人の用法を無視した新例である。しかし全能なる「通用」はこの新例に生命を与えた。「門前雀羅を張る」の成語もいつかはこれと同じように意外の新例を生ずるかも知れない。
 すると或評論家は特に学識に乏しかったのではない。唯《ただ》聊《いささ》か時流の外に新例を求むるのに急だったのである。その評論家の揶揄《やゆ》を受けたのは、――兎に角あらゆる先覚者は常に薄命に甘んじなければならぬ。

   制限

 天才もそれぞれ乗り越え難い或制限に拘束されている。その制限を発見することは多少の寂しさを与えぬこともない。が、それはいつの間にか却《かえ》って親しみを与えるものである。丁度竹は竹であり、蔦《つた》は蔦である事を知ったように。

   火星

 火星の住民の有無を問うことは我我の五感に感ずることの出来る住民の有無を問うことである。しかし生命は必ずしも我我の五感に感ずることの
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