のめりんすの帯に紺絣《こんがすり》の単衣でしたが、今夜は湯上りだけに血色も美しく、銀杏返《いちょうがえ》しの鬢《びん》のあたりも、まだ濡れているのかと思うほど、艶々と櫛目《くしめ》を見せています。それが濡手拭と石鹸の箱とをそっと胸へ抱くようにして、何が怖いのか、往来の右左へ心配そうな眼をくばりましたが、すぐに新蔵の姿を見つけたのでしょう。まだ気づかわしそうな眼でほほ笑むと、つと蓮葉《はすっぱ》に男の側へ歩み寄って、「長い事御待たせ申しまして。」と便なさそうに云いました。「何、いくらも待ちゃしない。それよりお前、よく出られたね。」新蔵はこう云いながら、お敏と一しょに元来た石河岸の方へゆっくり歩き出しましたが、相手はやはり落着かない容子で、そわそわ後ばかり見返りますから、「どうしたんだ。まるで追手でもかかりそうな風じゃないか。」と、わざと調戯《からか》うように声をかけますと、お敏は急に顔を赤らめて、「まあ私、折角いらしって下すった御礼も申し上げないで――ほんとうによく御出で下さいました。」と、それでも不安らしく答えるのです。そこで新蔵も気がかりになって、あの石河岸へ来るまでの間に、いろいろ
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