》ねて、押しかけたのはお敏の所――あの神下しの婆の家です。
それが星一つ見えない、暗の夜で、悪く地息《じいき》が蒸れる癖に、時々ひやりと風が流れる、梅雨中にありがちな天気でした。新蔵は勿論中っ腹で、お敏の本心を聞かない内は、ただじゃ帰らないくらいな気組でしたから、墨を流した空に柳が聳えて、その下に竹格子の窓が灯をともした、底気味悪い家の容子《ようす》にも頓着せず、いきなり格子戸をがらりとやると、狭い土間に突立って、「今晩は。」と一つ怒鳴ったそうです。その声を聞いたばかりでも、誰だろうくらいな推量はすぐについたからでしょう。あの優しい含み声の返事も、その時は震えていたようですが、やがて静に障子が開くと、梱《しきみ》越しに手をついた、やつやつしいお敏の姿が、次の間からさす電燈の光を浴びて、今でも泣いているかと思うほど、悄々とそこへ現れました。が、こちらは元より酒の上で、麦藁帽子を阿弥陀《あみだ》にかぶったまま、邪慳《じゃけん》にお敏を見下しながら、「ええ、阿母《おっか》さんは御在宅ですか。手前少々見て頂きたい事があって、上ったんですが、――御覧下さいますか、いかがなもんでしょう。御取次。
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