にも弱味を見すべき場合ではないので、無理に元気の好い声を出しながら、「何、そんなに心配おしでない。長い間にはまた何とか分別もつこうと云うものだから。」と、一時のがれの慰めを云いますと、お敏はようやく涙をおさめて、新蔵の膝を離れましたが、それでもまだ潤み声で、「それは長い間でしたら、どうにかならない事もございますまいが、明後日の夜はまた家の御婆さんが、神を下すと云って居りましたもの。もしその時私がふとした事でも申しましたら――」と、術なさそうに云うのです。これには新蔵も二度|吐胸《とむね》を衝いて、折角のつけ元気さえ、全く沮喪《そそう》せずにはいられませんでした。明後日と云えば、今日明日の中に、何とか工夫《くふう》をめぐらさなければ、自分は元よりお敏まで、とり返しのつかない不幸の底に、沈淪しなければなりますまい。が、たった二日の間に、どうしてあの怪しい婆を、取って抑える事が出来ましょう。たとい警察へ訴えたにしろ、幽冥《ゆうめい》の世界で行われる犯罪には、法律の力も及びません。そうかと云って社会の輿論《よろん》も、お島婆さんの悪事などは、勿論|哂《わら》うべき迷信として、不問に附してしまうでしょう。そう思うと新蔵は、今更のように腕を組んで、茫然とするよりほかはありませんでした。そう云う苦しい沈黙が、しばらくの間続いた後で、お敏は涙ぐんだ眼を挙げると、仄《ほの》かに星の光っている暮方の空を眺めながら、「いっそ私は死んでしまいたい。」と、かすかな声で呟きましたが、やがて物に怯《おび》えたように、怖々《おずおず》あたりを見廻して、「余り遅くなりますと、また家の御婆さんに叱られますから、私はもう帰りましょう。」と、根も精もつき果てた人のように云うのです。成程そう云えばここへ来てから、三十分は確かに経ちましたろう。夕闇は潮の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》と一しょに二人のまわりを立て罩《こ》めて、向う河岸《がし》の薪《たきぎ》の山も、その下に繋《つな》いである苫船《とまぶね》も、蒼茫たる一色に隠れながら、ただ竪川の水ばかりが、ちょうど大魚の腹のように、うす白くうねうねと光っています。新蔵はお敏の肩を抱いて、優しく唇を合せてから、「ともかくも明日の夕方には、またここまで来ておくれ。私もそれまでには出来るだけ、知慧を絞《しぼ》って見る心算《つもり》だから。」と
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