たそうです。が、勿論新蔵と堅い約束の出来ていたお敏は、その晩にも逃げ帰る心算《つもり》だったそうですが、向うも用心していたのでしょう。度々入口の格子戸を窺《うかが》っても、必ず外に一匹の蛇が大きなとぐろを巻いているので、到底一足も踏み出す勇気は、起らなかったと云う事です。それからその後も何度となく、隙を狙っては逃げ出しにかかると、やはり似たような不思議があって、どうしても本意が遂げられません。そこでこの頃は仕方がなく何も因縁事と詮めて、泣く泣くお島婆さんの云いなり次第になっていました。
 ところがこの間新蔵が来て以来、二人の関係が知れて見ると、日頃非道なあの婆が、お敏を責めるの責めないのじゃありません。それも打ったりつねったりするばかりか、夜更けを待っては怪しげな法を使って、両腕を空ざまに吊し上げたり、頸のまわりへ蛇をまきつかせたり、聞くさえ身の毛のよ立つような、恐しい目にあわせるのです。が、それよりもさらにつらいのは、そう云う折檻《せっかん》の相間《あいま》相間に、あの婆がにやりと嘲笑《あざわら》って、これでも思い切らなければ、新蔵の命を縮めても、お敏は人手に渡さないと、憎々しく嚇《おど》す事でした。こうなるとお敏も絶体絶命ですから、今までは何事も宿命と覚悟をきめていたのが、万一新蔵の身の上に、取り返しのつかない事でも起っては大変と、とうとう男に一部始終を打ち明ける気になったのです。が、それも新蔵が委細を聞いた後になって、そう云う恐しい事をする女かと、嫌いもし蔑《さげす》みもしそうでしたから、いよいよ泰《たい》さんの所へ駈けつけるまでには、どのくらい思い迷ったか、知れないほどだったと云う事でした。
 お敏はこう話し終ると、またいつものように蒼白くなった顔を挙げて、じっと新蔵の眼を見つめながら、「そう云う因果な身の上なのでございますから、いくらつらくっても悲しくっても、何もなかった昔と詮めて、このまま――」と云いかけましたが、もう我慢が出来なくなったと見えて、男の膝へすがったなり、袖を噛んで泣き出しました。途方《とほう》に暮れたのは新蔵で、しばらくはただお敏の背をさすりながら、叱ったり励ましたりしていたものの、さてあのお島婆さんを向うにまわして、どうすれば無事に二人の恋を遂げる事が出来るかと云うと、残念ながら勝算は到底ないと云わなければなりません。が、勿論お敏のため
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