ますから、そんな莫迦《ばか》げた気のすることはありそうもないものでございますが、目の下で寄せつ返しつしている烏帽子《えぼし》の波を見て居りますと、どうもそんな大変が起りそうな気が致してなりません。これは見物の人数の心もちがいつとなく鼻蔵《はなくら》にも乗り移ったのでございましょうか。それともあの建札を建てたばかりに、こんな騒ぎが始まったと思うと、何となく気が咎《とが》めるので、知らず知らずほんとうに竜が昇ってくれれば好《い》いと念じ出したのでございましょうか。その辺の事情はともかくも、あの高札の文句を書いたものは自分だと重々《じゅうじゅう》承知しながら、それでも恵印は次第次第に情けない気もちが薄くなって、自分も叔母の尼と同じように飽かず池の面《おもて》を眺め始めました。また成程《なるほど》そう云う気が起りでも致しませんでしたら、昇る気づかいのない竜を待って、いかに不承不承《ふしょうぶしょう》とは申すものの、南大門《なんだいもん》の下に小一日《こいちにち》も立って居る訳には参りますまい。
「けれども猿沢の池は前の通り、漣《さざなみ》も立てずに春の日ざしを照り返して居るばかりでございます。空もやはりほがらかに晴れ渡って、拳《こぶし》ほどの雲の影さえ漂って居る容子《ようす》はございません。が、見物は相不変《あいかわらず》、日傘の陰にも、平張《ひらばり》の下にも、あるいはまた桟敷《さじき》の欄干の後《うしろ》にも、簇々《ぞくぞく》と重なり重なって、朝から午《ひる》へ、午から夕《ゆうべ》へ日影が移るのも忘れたように、竜王が姿を現すのを今か今かと待って居りました。
「すると恵印《えいん》がそこへ来てから、やがて半日もすぎた時分、まるで線香の煙のような一すじの雲が中空《なかぞら》にたなびいたと思いますと、見る間にそれが大きくなって、今までのどかに晴れていた空が、俄《にわか》にうす暗く変りました。その途端《とたん》に一陣の風がさっと、猿沢の池に落ちて、鏡のように見えた水の面に無数の波を描《えが》きましたが、さすがに覚悟はしていながら慌てまどった見物が、あれよあれよと申す間もなく、天を傾けてまっ白にどっと雨が降り出したではございませんか。のみならず神鳴《かみなり》も急に凄じく鳴りはためいて、絶えず稲妻《いなずま》が梭《おさ》のように飛びちがうのでございます。それが一度鍵の手に群る雲を
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