男に缺けてゐた勇氣である。さうして、又《また》さつき、この門の上《うへ》へ上《あが》つて、この老婆を捕へた時の勇氣とは、全然《ぜん/″\》、反對な方向に動《うご》かうとする勇氣である。下人は、饑死をするか盗人《ぬすびと》になるかに迷はなかつたばかりではない。その時《とき》のこの男の心もちから云へば、饑死《うゑじに》などと云ふ事は、殆、考《かんが》へる事さへ出來ない程、意識の外に追ひ出されてゐた。
「きつと、そうか。」
 老婆の話が完ると、下人は嘲《あざけ》るやうな聲で念《ねん》を押した。さうして、一|足《あし》前《まへ》へ出ると、不意《ふい》に、右の手を面皰から離して、老婆の襟上《えりがみ》をつかみながら、かう云つた。
「では、己が引剥《ひはぎ》をしようと恨むまいな。己もさうしなければ、饑死をする體なのだ。」
 下人は、すばやく、老婆の着物《きもの》を剥ぎとつた。それから、足《あし》にしがみつかうとする老婆を、手荒《てあら》く屍骸の上へ蹴倒《けたほ》した。梯子の口までは、僅《わづか》に五歩を數へるばかりである。下人は、剥《は》ぎとつた檜肌色の着物《きもの》をわきにかゝへて、またゝく間に
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