一つの顏を覗きこむやうに眺《なが》めてゐた。髮の毛の長い所を見ると、多分《たぶん》女《をんな》の屍骸であらう。
下人は、六分の恐怖《きやうふ》と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸《いき》をするのさへ忘れてゐた。舊記の記者《きしや》の語を借りれば、「頭身《とうしん》の毛も太る」やうに感じたのである。すると、老婆《らうば》は、松の木片を、床板の間に挿《さ》して、それから、今まで眺めてゐた屍骸の首に兩手《りやうて》をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱《しらみ》をとるやうに、その長い髮《かみ》の毛《け》を一本づゝ拔きはじめた。髮は手に從《したが》つて拔けるらしい。
その髮の毛が、一本ずゝ拔《ぬ》けるのに從つて下人の心《こゝろ》からは、恐怖が少しづつ消えて行つた。さうして、それと同時《どうじ》に、この老婆に對するはげしい憎惡《ぞうを》が、少しづゝ動いて來た。――いや、この老婆《らうば》に對すると云つては、語弊《ごへい》があるかも知れない。寧、あらゆる惡に對する反感《はんかん》が、一分毎に強さを増して來たのである。この時、誰《たれ》かがこの下人に、さつき門《もん》の下でこの男が考へてゐた、饑死《うゑじに》をするか盗人になるかと云ふ問題を、改めて持出《もちだ》したら、恐らく下人は、何の未練《みれん》もなく、饑死を選んだ事であらう。それほど、この男《をとこ》の惡を憎む心は、老婆の床《ゆか》に挿した松の木片のやうに、勢よく燃《も》え上《あが》り出してゐたのである。
下人には、勿論、何故老婆が死人《しにん》の髮の毛を拔《ぬ》くかわからなかつた。從つて、合理的《がふりてき》には、それを善惡の何れに片《かた》づけてよいか知らなかつた。しかし下人にとつては、この雨《あめ》の夜《よ》に、この羅生門の上で、死人の髮の毛《け》を拔くと云ふ事が、それ丈で既に許《ゆる》す可らざる惡であつた。勿論、下人《げにん》は、さつき迄自分が、盗人になる氣でゐた事なぞは、とうに忘れてゐるのである。
そこで、下人は、兩足《りやうあし》に力を入れて、いきなり、梯子《はしご》から上へ飛び上つた。さうして聖柄《ひぢりづか》の太刀に手をかけながら、大股《おおまた》に老婆の前へ歩みよつた。老婆が驚いたのは、云ふ迄もない。
老婆は、一目下人を見ると、まるで弩《いしゆみ》にでも弾かれたやうに、飛び上つた。
「おのれ、
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