どこへ行く。」
 下人は、老婆が屍骸《しがい》につまづきながら、慌《あは》てふためいて逃げようとする行手を塞いで、こう罵《のゝし》つた。老婆は、それでも下人をつきのけて行《ゆ》かうとする。下人は又、それを行かすまいとして、押《お》しもどす。二人は屍骸《しがい》の中で、暫、無言《むごん》のまゝ、つかみ合つた。しかし勝敗《しようはい》は、はじめから、わかつている。下人はとうとう、老婆の腕《うで》をつかんで、無理にそこへ※[#「てへん+丑」、第4水準2−12−93]《ね》ぢ倒《たほ》した。丁度、鷄《とり》の脚のやうな、骨と皮ばかりの腕である。
「何をしてゐた。さあ何をしてゐた。云へ。云はぬと、これだぞよ。」
 下人は、老婆《らうば》をつき放すと、いきなり、太刀《たち》の鞘《さや》を拂つて、白い鋼《はがね》の色をその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は默つてゐる。兩手《りやうて》をわなわなふるはせて、肩で息《いき》を切りながら、眼を、眼球《がんきう》が※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》の外へ出さうになる程、見開いて、唖のやうに執拗《しうね》く默つてゐる。これを見ると、下人は始《はじ》めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志《いし》に支配されてゐると云ふ事を意識《いしき》した。さうして、この意識は、今《いま》まではげしく燃えてゐた憎惡の心を何時《いつ》の間にか冷《さ》ましてしまつた。後《あと》に殘つたのは、唯、或《ある》仕事《しごと》をして、それが圓滿《ゑんまん》に成就した時の、安らかな得意《とくい》と滿足とがあるばかりである。そこで、下人は、老婆《らうば》を見下しながら、少し聲を柔《やはら》げてかう云つた。
「己は檢非違使《けびゐし》の廳の役人などではない。今し方この門《もん》の下を通《とほ》りかゝつた旅の者だ。だからお前に繩《なわ》をかけて、どうしようと云ふやうな事はない。唯《たゞ》、今時分、この門の上で、何《なに》をして居たのだか、それを己に話《はなし》しさへすればいいのだ。」
 すると、老婆は、見開《みひら》いてゐた眼を、一|層大《そうおほ》きくして、ぢつとその下人の顏《かほ》を見守つた。※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]の赤くなつた、肉食鳥のやうな、鋭《するど》い眼で見たのである。それから、皺《しは》で、殆、鼻と一つになつた唇を、何か物
前へ 次へ
全9ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング