れどもくたびれた儘で、安閑《あんかん》と宿屋へ尻を据ゑてもゐられないから、その日の暮方《くれがた》その紳士と三人で、高崎の停車場まで下《くだ》つて来たが、さて停車場へ来てみると、我々の財布には上野までの汽車賃さへ残つてゐない。そこで甚《はなはだ》恐縮しながら、その紳士に事情を話して、確《たし》か一円二十銭ばかり借用した。以上の如く伊香保と云つても、溪山《けいざん》の風光は更に覚えてゐないが、この紳士の記憶だけは温泉の話が出る度に必ず心に浮んで来る。何でも湯の中で話した所によると、この人は一|人《にん》乗りの小さな自働車を製造したいとか云ふ事だつた。今日の新聞で見ると、乗合自働車はもう出来たさうであるが、一|人《にん》乗りの小さな自働車が出来たと云ふ噂はどこにもない。今ごろあの紳士はどうしてゐるかしら。
[#地から1字上げ](大正八年八月)



底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
   1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:

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