忘れられぬ印象
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)伊香保《いかほ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|人《にん》乗り

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正八年八月)
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 伊香保《いかほ》の事を書けと云ふ命令である。が、遺憾《ゐかん》ながら伊香保へは、高等学校時代に友だちと二人《ふたり》で、赤城山《あかぎさん》と妙義山《めうぎさん》へ登つた序《ついで》に、ちよいと一晩泊つた事があるだけなんだから、麗々《れいれい》しく書いて御眼《おめ》にかける程の事は何もない。第一どんな町で、どんな湯があつたか、それさへもう忘れてしまつた。唯《ただ》、朧《おぼろ》げに覚えてゐるのは、山に蔓《はびこ》る若葉の中を電車でむやみに上《のぼ》つて行つた事だけである。それから何とか云ふ宿屋へとまつたら、隣座敷に立派な紳士が泊り合せてゐて、その人が又非常に湯が好きだつたものだから、あくる日は朝から六度も一しよに風呂へ行つた。さうしたら腹の底からへとへとにくたびれて、廊下を歩くのさへ大儀になつた。けれどもくたびれた儘で、安閑《あんかん》と宿屋へ尻を据ゑてもゐられないから、その日の暮方《くれがた》その紳士と三人で、高崎の停車場まで下《くだ》つて来たが、さて停車場へ来てみると、我々の財布には上野までの汽車賃さへ残つてゐない。そこで甚《はなはだ》恐縮しながら、その紳士に事情を話して、確《たし》か一円二十銭ばかり借用した。以上の如く伊香保と云つても、溪山《けいざん》の風光は更に覚えてゐないが、この紳士の記憶だけは温泉の話が出る度に必ず心に浮んで来る。何でも湯の中で話した所によると、この人は一|人《にん》乗りの小さな自働車を製造したいとか云ふ事だつた。今日の新聞で見ると、乗合自働車はもう出来たさうであるが、一|人《にん》乗りの小さな自働車が出来たと云ふ噂はどこにもない。今ごろあの紳士はどうしてゐるかしら。
[#地から1字上げ](大正八年八月)



底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
   1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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終わり
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