ナある。第一、着附の下に、足と云うものがない。口が開《あ》いたり、目が動いたりする後世の人形に比べれば、格段な相違である。手の指を動かす事はあるが、それも滅多《めった》にやらない。するのは、ただ身ぶりである。体を前後にまげたり、手を左右に動かしたりする――それよりほかには、何もしない。はなはだ、間ののびた、同時に、どこか鷹揚《おうよう》な、品のいいものである。僕は、人形に対して、再び、〔e'tranger〕 の感を深くした。
 アナトオル・フランスの書いたものに、こう云う一節がある、――時代と場所との制限を離れた美は、どこにもない。自分が、ある芸術の作品を悦ぶのは、その作品の生活に対する関係を、自分が発見した時に限るのである。Hissarlik の素焼の陶器は自分をして、よりイリアッドを愛せしめる。十三世紀におけるフィレンツェの生活を知らなかったとしたら、自分は神曲を、今日《こんにち》の如く鑑賞する事は出来なかったのに相違ない。自分は云う、あらゆる芸術の作品は、その製作の場所と時代とを知って、始めて、正当に愛し、かつ、理解し得られるのである。……
 僕は、金色《こんじき》の背景の前に、悠長な動作を繰返している、藍の素袍《すおう》と茶の半上下《はんがみしも》とを見て、図《はか》らず、この一節を思い出した。僕たちの書いている小説も、いつかこの野呂松人形のようになる時が来はしないだろうか。僕たちは、時代と場所との制限をうけない美があると信じたがっている。僕たちのためにも、僕たちの尊敬する芸術家のためにも、そう信じて疑いたくないと思っている。しかし、それが、果して、そうありたい[#「ありたい」に傍点]ばかりでなく、そうある[#「ある」に傍点]事であろうか。……
 野呂松人形は、そうある[#「ある」に傍点]事を否定する如く、木彫の白い顔を、金の歩衝《ついたて》の上で、動かしているのである。
 狂言は、それから、すっぱ[#「すっぱ」に傍点]が出て、与六を欺《だま》し、与六が帰って、大名の不興《ふきょう》を蒙《こうむ》る所で完《おわ》った。鳴物は、三味線のない芝居の囃《はや》しと能の囃しとを、一つにしたようなものである。
 僕は、次の狂言を待つ間を、Kとも話さずに、ぼんやり、独り「朝日」をのんですごした。
[#地から1字上げ](大正五年七月十八日)



底本:「芥川龍之介全集1」
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