二 室生犀星
室生犀星《むろふさいせい》の金沢《かなざは》に帰つたのは二月《ふたつき》ばかり前のことである。
「どうも国へ帰りたくてね、丁度《ちやうど》脚気《かつけ》になつたやつが国の土を踏まないと、癒《なほ》らんと云ふやうなものだらうかね。」
さう言つて帰つてしまつたのである。室生《むろふ》の陶器を愛する病は僕よりも膏肓《かうくわう》にはひつてゐる。尤《もつと》も御同様に貧乏だから、名のある茶器などは持つてゐない。しかし室生のコレクシヨンを見ると、ちやんと或趣味にまとまつてゐる。云はば白高麗《はくかうらい》も画唐津《ゑからつ》も室生犀星を語つてゐる。これは当然とは云ふものの、必《かならず》しも誰にでも出来るものではない。
或日室生は遊びに行つた僕に、上品に赤い唐艸《からくさ》の寂びた九谷《くたに》の鉢を一つくれた。それから熱心にこんなことを云つた。
「これへは羊羹《やうかん》を入れなさい。(室生は何何し給へと云ふ代りに何何しなさいと云ふのである)まん中へちよつと五切《いつき》ればかり、まつ黒い羊羹《やうかん》を入れなさい。」
室生はかう云ふ忠告さへせずには気のすまない神経を持つてゐるのである。
或日又遊びに来た室生は僕の顔を見るが早いか、団子坂《だんござか》の或|骨董屋《こつとうや》に青磁《せいじ》の硯屏《けんびやう》の出てゐることを話した。
「売らずに置けと云つて置いたからね、二三日|中《うち》にとつて来なさい。もし出かける暇《ひま》がなけりや、使《つかひ》でも何《なん》でもやりなさい。」
宛然《ゑんぜん》僕にその硯屏《けんびやう》を買ふ義務でもありさうな口吻《こうふん》である。しかし御意《ぎよい》通りに買つたことを未《いま》だに後悔してゐないのは室生の為にも僕の為にも兎《と》に角《かく》欣懐《きんくわい》と云ふ外《ほか》はない。
室生はまだ陶器の外《ほか》にも庭を作ることを愛してゐる。石を据ゑたり、竹を植ゑたり、叡山苔《ゑいざんごけ》を匍《は》はせたり、池を掘つたり、葡萄棚《ぶだうだな》を掛けたり、いろいろ手を入れるのを愛してゐる。それも室生自身の家の室生自身の庭ではない。家賃を払つてゐる借家の庭に入《い》らざる数寄《すき》を凝《こ》らしてゐるのである。
或夜お茶に呼ばれた僕は室生と何か話してゐた。すると暗い竹むらの蔭に絶えず水のしたたる音がする。室生の庭には池の外《ほか》に流れなどは一つもある筈はない。僕は不思議に思つたから、「あの音は何だね?」と尋ねて見た。
「ああ、あれか、あれはあすこのつくばひへバケツの水をたらしてあるのだ。そら、あの竹の中へバケツを置いて、バケツの胴へ穴をあけて、その穴へ細い管《くだ》をさして……」
室生は澄まして説明した。室生の金沢へ帰る時、僕へかたみに贈つたものはかういふ因縁《いんねん》のあるつくばひである。
僕は室生に別れた後《のち》、全然さういふ風流と縁のない暮しをつづけてゐる。あの庭は少しも変つてゐない。庭の隅の枇杷《びは》の木は丁度《ちやうど》今寂しい花をつけてゐる。室生はいつ金沢からもう一度東京へ出て来るのかしら。
三 キユウピツド
浅草《あさくさ》といふ言葉は複雑である。たとへば芝《しば》とか麻布《あざぶ》とかいふ言葉は一つの観念を与へるのに過ぎない。しかし浅草といふ言葉は少くとも僕には三通《みとほ》りの観念を与へる言葉である。
第一に浅草といひさへすれば僕の目の前に現れるのは大きい丹塗《にぬ》りの伽藍《がらん》である。或はあの伽藍を中心にした五重塔《ごぢゆうのたふ》や仁王門《にわうもん》である。これは今度の震災《しんさい》にも幸《さいはひ》と無事に焼残つた。今ごろは丹塗《にぬ》りの堂の前にも明るい銀杏《いてふ》の黄葉《くわうえう》の中に、不相変《あひかはらず》鳩《はと》が何十羽も大まはりに輪を描《ゑが》いてゐることであらう。
第二に僕の思ひ出すのは池のまはりの見世物小屋《みせものごや》である。これは悉《ことごと》く焼野原になつた。
第三に見える浅草はつつましい下町《したまち》の一部である。花川戸《はなかはど》、山谷《さんや》、駒形《こまかた》、蔵前《くらまへ》――その外《ほか》何処《どこ》でも差支《さしつか》へない。唯|雨上《あまあが》りの瓦屋根だの、火のともらない御神燈《ごしんとう》だの、花の凋《しぼ》んだ朝顔の鉢だのに「浅草」の作者|久保田万太郎《くぼたまんたらう》君を感じられさへすれば好《よ》いのである。これも亦《また》今度の大地震《おおぢしん》は一望の焦土に変らせてしまつた。
この三通りの浅草のうち、僕のもう少し低徊《ていくわい》したいのは、第二の浅草、――活動写真やメリイ・ゴウ・ランドの小屋の軒を並べてゐた浅草である
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