ん》を録したものである。第三は考証《かうしやう》を試みたものである。第四は芸術的小品である。かう云ふ四種類の随筆にレエゾン・デエトルを持たないと云ふものは滅多《めつた》にない。感慨は兎《と》に角《かく》思想を含んでゐる。異聞も異聞と云ふ以上は興味のあることに違ひない。考証も学問を借りない限り、手のつけられないのは確《たしか》である。芸術的小品も――芸術的小品は問ふを待たない。
 しかしかう云ふ随筆は多少の清閑も得なかつた日には、たとひ全然とは云はないにしろ、さうさう無暗《むやみ》に書けるものではない。是《ここ》に於て乎《か》、新らしい随筆は忽ち文壇に出現した。新らしい随筆とは何《なん》であるか? 掛け値なしに筆に随《したが》つたものである。純乎《じゆんこ》として純なる出たらめである。
 もし僕の言葉を疑ふならば、古人の随筆は姑《しばら》く問はず、まづ観潮楼偶記《くわんてうろうぐうき》を読み或は断腸亭雑※[#「高/木」、第4水準2−15−28]《だんちやうていざつかう》を読み、次に月月の雑誌に出る随筆の大半と比べて見るがよい。後者の孟浪杜撰《まんらんづざん》なることは忽ち瞭然《りやうぜん》となるであらう。しかもこの新らしい随筆の作者は必《かならず》しも庸愚《ようぐ》の材《ざい》ばかりではない。ちやんとした戯曲や小説の書ける(一例を挙げれば僕の如き)相当の才人もまじつてゐるのである。
 随筆を清閑の所産とすれば、清閑は金《かね》の所産である。だから清閑を得る前には先づ金を持たなければならない。或は金を超越《てうゑつ》しなければならない。これはどちらも絶望である。すると新しい随筆以外に、ほんものの随筆の生れるのもやはり絶望といふ外《ほか》はない。
 李九齢《りきうれい》は「莫問野人生計事《とふなかれやじんせいけいのこと》」といつた。しかし僕は随筆を論ずるにも、清閑の所産たる随筆を論ずるにも、野人生計の事に及ばざるを得ない。況《いはん》や今後もせち辛《がら》いことは度たび辯ぜずにはゐられないであらう。かたがた今度の随筆の題も野人生計の事とつけることにした。勿論これも清閑を待たずにさつさと書き上げる随筆である。もし幾分でも面白かつたとすれば、それは作者たる僕自身の偉い為と思つて頂きたい。もし又面白くなくなつたとしたら――それは僕に責任のない時代の罪だと思つて頂きたい。

  
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