、義仲は北陸道より近江に入り、行家は東山道より大和に入り、革命軍の白旗、雪の如く、近畿の山河に満てり。
此時に於て、平氏と義仲との間に横はれる勝敗の決は、一に延暦寺が源平の何れに力を寄すべき乎に存したりき。若し、幾千の山法師にして、平氏と合して、楯を源軍につきしとせむ乎、或は革命軍の旗、洛陽に飜るの時なかりしやも、亦知るべからず。然れども延暦寺は、必しも平氏の忠実なる味方にはあらざりき。延暦寺は平氏に対して平なる能はざる幾多の理由を有したりき。平氏が兵糧米を山門領に課せるが如き、厳島を尊敬して前例を顧みず、妄に高倉上皇の御幸を請ひたるが如き、豈其の一たるなからむや。反平氏の空気は山門三千の、円頂黒衣の健児の間にも充満したり。彼等は恰も箭鼠の如し、彼等は撫づれば、撫づるほど其針毛を逆立たしむる也。清盛の懐柔政策が彼等の気焔をして却つて、高からしめたる、素より偶然なりとなさず。今や、山門は、二人の猟夫に逐はれたる一頭の兎となれり。二人の花婿に恋はれたる一人の花嫁となれり。而して平氏は、其源軍に力を合するを恐れ、平門の卿相十人の連署したる起請文を送りて、延暦寺を氏寺となし、日吉社を氏神となす
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