、義仲は北陸道より近江に入り、行家は東山道より大和に入り、革命軍の白旗、雪の如く、近畿の山河に満てり。
此時に於て、平氏と義仲との間に横はれる勝敗の決は、一に延暦寺が源平の何れに力を寄すべき乎に存したりき。若し、幾千の山法師にして、平氏と合して、楯を源軍につきしとせむ乎、或は革命軍の旗、洛陽に飜るの時なかりしやも、亦知るべからず。然れども延暦寺は、必しも平氏の忠実なる味方にはあらざりき。延暦寺は平氏に対して平なる能はざる幾多の理由を有したりき。平氏が兵糧米を山門領に課せるが如き、厳島を尊敬して前例を顧みず、妄に高倉上皇の御幸を請ひたるが如き、豈其の一たるなからむや。反平氏の空気は山門三千の、円頂黒衣の健児の間にも充満したり。彼等は恰も箭鼠の如し、彼等は撫づれば、撫づるほど其針毛を逆立たしむる也。清盛の懐柔政策が彼等の気焔をして却つて、高からしめたる、素より偶然なりとなさず。今や、山門は、二人の猟夫に逐はれたる一頭の兎となれり。二人の花婿に恋はれたる一人の花嫁となれり。而して平氏は、其源軍に力を合するを恐れ、平門の卿相十人の連署したる起請文を送りて、延暦寺を氏寺となし、日吉社を氏神となすを誓ひ、巧辞を以て其歓心を買はむと欲したり。然れども山門は冷然として之に答へざりき。同時に義仲の祐筆にして、しかも革命軍の軍師なりし大夫坊覚明は、延暦寺に牒して之を誘ひ、山門亦之に応じて、明に平氏に対して反抗の旗をひるがへしたり。是、実に平氏が蒙りたる最後の痛撃なりき。山門既に平氏に反く、平氏が、知盛、重衡等をして率ゐしめたる防禦軍が、遂に海潮の如く迫り来る革命軍に対して、殆ど何等の用をもなさざりしも豈宜ならずや。かくの如くにして、革命の激流は一瀉千里、遂に平氏政府を倒滅せしめたり。平氏は是に於て最後の窮策に出で至尊と神器とを擁して西国に走らむと欲したり。竜駕已に赤旗の下にあらば又以て、宣旨院宣を藉りて四海に号令するを得べく、已に四海に号令するを得ば再天日の墜ちむとするを回らし、天下をして平氏の天下たらしむるも敢て難事にあらず。
平氏が胸中の成竹は実にかくの如くなりし也。しかも、機急なるに及ンで法皇は竊に平氏を去り山門に上りて源軍の中に投じ給ひぬ。百事、悉、齟齬す、平氏は遂に主上を擁して天涯に走れり。翠華は、揺々として西に向ひ、霓旌は飜々として悲風に動く、嗚呼、「昨日は東関の下に轡をならべて十万余騎、今日は西海の波に纜を解きて七千余人、保元の昔は春の花と栄えしかども、寿永の今は、秋の紅葉と落ちはてぬ。」然り、平氏は、遂に、久しく予期せられたる没落の悲運に遭遇したり。
[#ここから3字下げ]
ふるさとを焼野のはらとかへり見て末もけぶりの
波路をぞゆく
[#ここで字下げ終わり]
三 最後
鳳闕の礎空しく残りて、西八条の余燼、未暖なる寿永二年七月二十六日、我木曾冠者義仲は、白馬金鞍、揚々として、彼が多年、夢寐の間に望みたる洛陽に入れり。超えて八月十日、左馬頭兼伊予守に拝せられ、虎符を佩び皐比に坐し、号して旭日将軍と称しぬ。今や、彼が得意は其頂点に達したり。彼は其熱望したるが如く遂に桂冠を頂けり。寿永の革命はかくして彼が凱歌の下に其局を結びたり。然りと雖も、彼と頼朝とが、相応呼して、猟し得たる中原の鹿は、果して何人の手中にか落ちむとする。若し彼にして之を得む乎、野心満々たる源家の呉児にして焉ぞ、手を袖にして、傍観せむや。若し頼朝にして之を得む乎、固より火の如き血性の彼の黙して止むべきにあらず。双虎一羊を争ふ、彼等が剣を横へて陣頭に相見る日の近きや知るべきのみ。しかも、シシリーに破れたるカルセーヂは、暫く蟄して大ローマの轅門に降ると雖も、捲土重来、幢戟南伊太利の原野に満ちて、再カンネーに会稽の恥を雪がずンばやまず。鳳輦西に向ひて、西海に浮びたる平氏は、九州四国の波濤の健児を糾合して、鸞旗を擁し征帆をかゝげ、更に三軍を従へて京師に迫るの日なくンばやまず。風雪将に至らむとして、氷天霰を飛ばす、義仲の成功と共に動乱の気運は、再洪瀾の如く漲り来れり。
然り、彼は成功と共に失敗を得たり。彼が粟津の敗死は既に彼が、懸軍長駆、白旗をひるがへして洛陽に入れるの日に兆したり。彼は、其勃々たる青雲の念をして満足せしむると同時に、彼の位置の頗る危険なるを感ぜざる能はざりき。彼は北方の強たる革命軍を率ゐて洛陽に入れり、而して、洛陽は、彼等が住すべきの地にはあらざりき。剣と酒とを愛する北国の健児は、其兵糧の窮乏を感ずると共に、直に市邑村落を掠略したり。彼等のなす所は飽く迄も直截にして、且飽く迄も乱暴なりき。彼等は、馬を青田に放つて秣ふを憚らざりき。彼等は伽藍を壊ちて、薪とするを恐れざりき。
彼等は、彼等の野性を以て、典例と儀格とを重ンずる京洛の人心をして聳動せしめたり
前へ
次へ
全18ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング