下の怨府たらしめしが如く、亦東国の武士をして少からざる不快を抱かしめたり。嘗て、馬を彼等と並べて、銀兜緋甲、王城を守れる平門の豎子が、今は一門の栄華を誇りて却て彼等に加ふるに痴人猶汲夜塘水の嘲侮を以てするを見る、彼等の心にして焉ぞ平なるを得むや。切言すれば、彼等は、漸に其門閥の貴き意義を失はむとするを感じたり。嗚呼、「弓矢とる身のかりにも名こそ惜しく候へ」と叫破せる彼等にして、焉ぞ此侮蔑に甘ずるを得むや。加ふるに大番によりて京師に往来したる多くの豪族は、京師に横溢せる、危険なる反平氏の空気を、冥黙の間に彼等の胸奥に鼓吹したり。而して、平氏が法皇幽屏の暴挙を敢てすると共に、久しく欝積したる彼等の不快は、一朝にして勃々たる憤激となれり。
しかも、天下の風雲は日に日に急にして、革命的気運は、将に暗潮の如く湧き来らむとす。是に於て、彼等の野心は、漸に動き来れり。野心は如何なる場合に於ても人をして、其力量以上の事業をなさしめずンばやまず。泰山を挾みて北海を越えしむるものは野心也。精衛をして滄溟を埋めしむるものは野心也。所謂天民の秀傑なる、智勇弁力ある彼等が、大勢の将に変ぜむとするを見て、抑ふべからざる野心を生じ来れる、固より宜なり。既に彼等にして、其最大の活動力たる、野心と相擁す、彼等が天荒を破つて、革命の明光を、捧げ来る日の、近かるべきや知るべきのみ。啻に野心に止らず、平氏の暴逆は、又彼等をして、二十周星の久しきに及びて、殆ど忘れられたる源氏の盛世を、想起せしめたり。彼等は彼等が、旌旗百万、昂然として天下に大踏したる、彼等が得意の時代を追憶したり。
而して、顧みて、平氏の跳梁を見、源氏の空しく蓬蒿の下に蟄伏したるを見る、彼等が懐旧の涙は、滴々、彼等が雄心を刺戟したり。彼等はかくの如くにして、彼等の登竜門が今や目前に開かれたるを感じたり。彼等は其伝家丈八の緑沈槍を、ふるふべき時節の到来したるを覚りたり。治承四年、長田入道が、惶懼、書を平忠清に飛ばして、東国将に事あらむとするを告げたるが如き、革命の曙光が、既に紅を東天に潮したるを表すものにあらずや。今や熱烈なる東国武士の憤激と、彼等が胸腔に満々たる野心と、復古的、革命的の思想を鼓吹すべき、懐旧の涙とは、自ら一致したり。若し一人にしてかくの如くンば一人を挙げて動く也。天下にしてかくの如くンば、天下を挙げて動く也。動乱の気運、漸に天下を動かすと共に、社会の最も健全なる部分――平氏政府の厄介物たる、幾十の卿相、幾百の院の近臣、幾千の山法師、はた幾万の東国武士の眼中には、既に平氏政府の存在を失ひたり。彼等の脳裡には、入道相国も一具の骸骨のみ。平門の画眉涅歯も唯是瓦鶏土犬のみ。西八条の碧瓦丹檐も、亦丘山池沢のみ。要言すれば、社会の直覚的本能は、既に平氏政府の亡滅を認めたり。反言すれば、精神的革命は既に冥黙の中に、成就せられたり。夫、燈は油なければ、即ち滅し、魚は水なければ、即ち死す。天下の人心を失ひたる平氏政府が、日一日より、没落の悲運に近づきたる、豈、宜ならずとせむや。然り、桑樹に対して太息する玄徳、青山を望ンで黙測する孔明、玉璽を擁して疾呼する孫堅、蒼天を仰いで苦笑する孟徳、蛇矛を按じて踊躍する翼徳、彼等の時代は漸に来りし也。之を譬ふれば、当時の社会状態は、恰も蝕みたる老樹の如し。其仆るゝや、日を数へて待つべきのみ。天下動乱の機は、既に熟したる也。
「外よりは手もつけられぬ要害を中より破る栗のいがかな。」しかも平氏が堂上の卿相四十三人を陟罰して、後白河法皇を鳥羽殿に幽し奉り、新院に迫りて其外孫たる三歳の皇子を冊立せし横暴は、更に、其亡滅の日をして早からしめたり。是に於て、小松内大臣の薨去によりて我事成れりと抃舞したる、十のマラー、百のロベスピエールは、平氏政府の命数の既に目睫に迫れるを見ると共に、剣を撫し手に唾して、蹶起したり。
夫、天下は平氏の天下にあらず、天下は天下の天下也。平門の犬羊、いづれの日にか、其跳梁を止めむとする。
嗚呼、誰か天火を革命の聖壇に燃やして、長夜の闇を破るものぞ、誰か革命の角笛を吹いて、黒甜郷裡の逸眠を破るものぞ。果然、老樹は仆れたり。平等院頭、翩々として、ひるがへる白旗を見ずや。
然り、革命の風雲は、細心、廉悍の老将、源三位頼政の手によつて、飛ばされたり。
彼は、源摂津守頼光の玄孫、源氏一流の嫡流なりき。然れども、平治以降、彼は、平氏を扶けたるの多きを以て、対平氏関係の甚、円満なりしを以て、平氏が比較的彼を優遇したるを以て、平氏を外にしては、武臣として、未其比を見ざる、三位の高位を得たり。若し彼にして平和を愛せしめしならば、或は栄華を平氏と共にして、温なる昇平の新夢に沈睡したるやも亦知るべからず。さはれ、老驥櫪に伏す。志は千里にあり。彼は滔々たる天下と共に、太平の余
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