も、尚彼の一門の政治的生命を強固ならしめ、上は朝廷と院とに接し、下は野心ある卿相に対し、励精、以て調和一致の働をなさむと欲したり。彼はこれが為に、一国の重臣私門の成敗に任ずべからざるを説いて、謀主成親の死罪を宥めたりき。彼はこれが為に、君臣の大義を叫破して法皇幽屏の暴挙を戒めたりき。彼が世を終る迄は、天下未平氏を去らず。入道相国の如きも、動もすれば暴戻不義の挙を敢てしたりと雖も、猶一門を統率して四海の輿望を負ふに堪へたりし也。彼若し逝かずンば、西海の没落は更に幾年の遅きを加へたるやも亦知るべからず。惜むべし、彼は、治承三年八月三日を以て、溘焉として白玉楼中の人となれり。彼一度逝く、入道相国は恰も放たれたる虎の如し。其狂悖の日に募るに比例して、天下は益※[#二の字点、1−2−22]平氏にそむき、一波先づ動いて万波次いで起り、遂に、又救ふ可らざる禍機に陥り了れり。加ふるに、京師に祝融の災あり。※[#「飆」の偏と旁が逆、第4水準2−92−41]風地震悪疫亦相次いで起り、庶民堵に安ぜず、大旱地を枯らして、甸服の外、空しく赤土ありて青苗将に尽きなむとす。「平家には、小松の大臣殿こそ心も剛に謀も勝れておはせしが、遂に空しくなり給ひぬ。今は何の憚る所ぞ。御辺一度立つて麾かば天下は風の如く、靡きなむ。」と、勇僧文覚をして、抃舞、蛭ヶ小島の流人を説かしめしは、実に此時にありとなす。平氏政府の命数は、既に眉端に迫れる也。危機実に一髪。
天下の大勢が、かくの如く革命の気運に向ひつゝありしに際し、諸国の源氏は如何なる状態の下にありし乎。願くは吾人をして、語らしめよ。嘗て、東山東海北陸の三道にわたり、平氏と相並んで、鹿を中原に争ひたる源氏も、時利あらず、平治の乱以来逆賊の汚名を負ひて、空しく東国の莽蒼に雌伏したり。然りと雖も八幡公義家が、馬を朔北の曠野に立て、乱鴻を仰いで長駆、安賊を鏖殺したる、当年の意気豈悉消沈し去らむ哉。革命の激流一度動かば、先平氏政府に向つて三尖の長箭を飛ばさむと欲するもの、源氏を措いて又何人かある。是平氏政府自身が恒に戒心したる所にあらずや。
然り、源氏は真に平氏の好敵手たるに恥ぢず。彼は平氏に対する勁敵中の勁敵也。頼義義家が前九後三の禍乱を鎮めしより以来、東国は其半独立の政治的天地となり、武門の棟梁は、其因襲的の尊称となれり。しかも平氏は、平氏自身の立脚地が西国にあるを知りしを以て、敢て其得意なる破壊的政策を東国に振はず。(恐らくは是最も賢き、最も時機に適したる政策なりしならむ)勇夫と悍馬とに富める、茫々たる東国の山川は、依然として、源氏の掌中に存したり。約言すれば、保元平治以前の源氏と保元平治以後の源氏とは其東国に有せる勢力に於て殆ど何等の逕庭をも有せざりし也。
然りと雖も、彼等の勢力は未だ以て中原を動かすに足らざりき。駿河以東十余ヶ国の山野は、野州の双虎と称せられたる小山足利の両雄、白河の御館と尊まれたる越後の城氏、慓悍、梟勁を以て知られたる甲斐源氏の一党、はた、下総に竜蟠せる千葉氏の如き、幾多の豪族を其中に擁したりと雖も、覇を天下に称ふるものは、僅に、所謂、周東、周西、伊南、伊北、庁南、庁北の健児を糾合して八州に雄視する、上総の覇王上総介氏と、十七万騎の貫主、北奥の蒼竜、雄名海内を風摩せる藤原秀衡との両氏あるのみ。而して、此双傑の勢力を以てするも、猶、後顧の憂なくして西上の旗を翻すは、到底不可能の事となさざる可らず。何となれば彼等は、猶個々の小勢力なりしを以て、しかも互に相掣肘しつゝありしを以て也。遮莫、彼等は過飽和の溶液也。一度之に振動を与へむ乎、液体は忽に固体を析出する也。一度革命の気運にして動かむ乎、彼等は直に剣を按じて蹶起するを辞せざる也。彼等豈恐れざる可からざらむや。然れども彼等は、未平氏に対して比較的従順なる態度を有したりき。請ふ彼等を以て、妄に生を狗鼠の間に偸むものとなす勿れ。彼等が平氏に対して温和なりしは、唯平氏が彼等に対して温和なりしが為のみ。嘗て、吾人の論ぜしが如く、平氏の立脚地は西国にあり。平氏にして、相印を帯びて天下に臨まむと欲せば、西国の経営は、其最も重要なる手段の一たらずンばあらず。さればこそ、入道相国の烱眼は、瀬戸内海の海権を収めて、四国九州の勢力を福原に集中するの急務なるを察せしなれ。西南二十一国が平氏の守介を有したる豈此間の消息を洩したるものにあらずや。既に平氏にして西国の経営に尽瘁す。東国をして単に現状を維持せしめむとしたるが如き、亦怪しむに足らざる也。而して、自由を愛する東国の武士は此寛大なる政策に謳歌したり。謳歌せざる迄も悦服したり。悦服せざる迄も甘受したり。彼等は実に此優遇に安じて二十年を過ぎたりし也。
然れ共今や平氏は完く其成功に沈酔したり。而して平氏の酔態は、平氏自身をして天
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