で、これは過去において黒かったと云う事実を危く忘却させるくらい、文字通り蒼然たる古色を帯びたものであった。しかも先生のうすよごれた折襟には、極めて派手な紫の襟飾《ネクタイ》が、まるで翼をひろげた蛾《が》のように、ものものしく結ばれていたと云う、驚くべき記憶さえ残っている。だから先生が教室へはいると同時に、期せずして笑を堪《こら》える声が、そこここの隅から起ったのは、元《もと》より不思議でも何でもない。
が、読本《とくほん》と出席簿とを抱えた毛利《もうり》先生は、あたかも眼中に生徒のないような、悠然とした態度を示しながら、一段高い教壇に登って、自分たちの敬礼に答えると、いかにも人の好さそうな、血色の悪い丸顔に愛嬌《あいきょう》のある微笑を漂わせて、
「諸君」と、金切声《かなきりごえ》で呼びかけた。
自分たちは過去三年間、未嘗《いまだかつ》てこの中学の先生から諸君を以て遇《ぐう》せられた事は、一度もない。そこで毛利先生のこの「諸君」は、勢い自分たち一同に、思わず驚嘆の眼を見開かせた。と同時に自分たちは、すでに「諸君」と口を切った以上、その後はさしずめ授業方針か何かの大演説があるだろうと
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