は、ほとんど一言《ひとこと》もきかずにいた。すると友人の批評家が、あすこの赤い柱の下に、電車を待っている人々の寒むそうな姿を一瞥すると、急に身ぶるいを一つして、
「毛利《もうり》先生の事を思い出す。」と、独り語《ごと》のように呟《つぶや》いた。
「毛利先生と云うのは誰だい。」
「僕の中学の先生さ。まだ君には話した事がなかったかな。」
 自分は否《いな》と云う代りに、黙って帽子の庇《ひさし》を下げた。これから下《しも》に掲げるのはその時その友人が、歩きながら自分に話してくれた、その毛利先生の追憶《ついおく》である。――

       ―――――――――――――――――――――――――

 もうかれこれ十年ばかり以前、自分がまだある府立中学の三年級にいた時の事である。自分の級に英語を教えていた、安達《あだち》先生と云う若い教師が、インフルエンザから来た急性|肺炎《はいえん》で冬期休業の間に物故《ぶっこ》してしまった。それが余り突然だったので、適当な後任を物色する余裕がなかったからの窮策《きゅうさく》であろう。自分の中学は、当時ある私立中学で英語の教師を勤めていた、毛利《もうり》先生と云う
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