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 就任の当日|毛利《もうり》先生が、その服装と学力とによって、自分たちに起させた侮蔑《ぶべつ》の情は、丹波《たんば》先生のあの失策(?)があって以来、いよいよ級全体に盛《さか》んになった。すると、また、それから一週間とたたないある朝の事である。その日は前夜から雪が降りつづけて、窓の外にさし出ている雨天体操場の屋根などは、一面にもう瓦の色が見えなくなってしまったが、それでも教室の中にはストオヴが、赤々《あかあか》と石炭の火を燃え立たせて、窓|硝子《ガラス》につもる雪さえ、うす青い反射の光を漂わす暇《ひま》もなく、溶《と》けて行った。そのストオヴの前に椅子を据えながら、毛利先生は例の通り、金切声《かなきりごえ》をふりしぼって、熱心にチョイス・リイダアの中にあるサアム・オヴ・ライフを教えていたが、勿論誰も真面目《まじめ》になって、耳を傾けている生徒はない。ない所か、自分の隣にいる、ある柔道の選手の如きは、読本《とくほん》の下へ武侠世界《ぶきょうせかい》をひろげて、さっきから押川春浪《おしかわしゅんろう》の冒険小説を読んでいる。
 それがかれこれ二三十分も続いたであろう。その中に毛利先生は、急に椅子《いす》から身を起すと、丁度今教えているロングフェロオの詩にちなんで、人生と云う問題を弁じ出した。趣旨はどんな事だったか、さらに記憶に残っていないが、恐らくは議論と云うよりも、先生の生活を中心とした感想めいたものだったと思う。と云うのは先生が、まるで羽根を抜かれた鳥のように、絶えず両手を上げ下げしながら、慌《あわただ》しい調子で饒舌《しゃべ》った中に、
「諸君にはまだ人生はわからない。ね。わかりたいったって、わかりはしません。それだけ諸君は幸福なんでしょう。我々になると、ちゃんと人生がわかる。わかるが苦しい事が多いです。ね。苦しい事が多い。これで私《わたくし》にしても、子供が二人ある。そら、そこで学校へ上げなければならない。上げれば――ええと――上げれば――学資? そうだ。その学資が入《い》るでしょう。ね。だから中々苦しい事が多い……」と云うような文句のあった事を、かすかに覚えているからである。が、何も知らない中学生に向ってさえ、生活難を訴《うった》える――あるいは訴えない心算《つもり》でも訴えている、先生の心もちなぞと云
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