火に火をつけていた。それは勿論東京ではない。わたしの父母の住んでいた田舎《いなか》の家の縁先《えんさき》だった。すると誰かおお声に「おい、しっかりしろ」と云うものがあった。のみならず肩を揺すぶるものもあった。わたしは勿論縁先に腰をおろしているつもりだった。が、ぼんやり気がついて見ると、いつか家の後《うし》ろにある葱畠《ねぎばたけ》の前にしゃがんだまま、せっせと葱に火をつけていた。のみならずわたしのマッチの箱もいつかあらまし空《から》になっていた。――わたしは巻煙草をふかしながら、わたしの生活にはわたし自身の少しも知らない時間のあることを考えない訣《わけ》には行かなかった。こう云う考えはわたしには不安よりもむしろ無気味だった。わたしはゆうべ夢の中に片手に彼女を絞め殺した。けれども夢の中でなかったとしたら、……
モデルは次の日もやって来なかった。わたしはとうとうMと云う家へ行き、彼女の安否《あんぴ》を尋ねることにした。しかしMの主人もまた彼女のことは知らなかった。わたしはいよいよ不安になり、彼女の宿所を教えて貰った。彼女は彼女自身の言葉によれば谷中三崎町《やなかさんさきちょう》にいるはず
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