ょいと会釈《えしゃく》をすると、こそこそ人ごみの中に隠れてしまった。それきり千枝子はいくら探して見ても、二度とその赤帽の姿が見当らない。――いや、見当らないと云うよりも、今まで向い合っていた赤帽の顔が、不思議なほど思い出せないのだそうだ。だから、あの赤帽の姿が見当らないと同時に、どの赤帽も皆その男に見える。そうして千枝子にはわからなくても、あの怪しい赤帽が、絶えずこちらの身のまわりを監視《かんし》していそうな心もちがする。こうなるともう鎌倉どころか、そこにいるのさえ何だか気味が悪い。千枝子はとうとう傘もささずに、大降りの雨を浴びながら、夢のように停車場を逃げ出して来た。――勿論《もちろん》こう云う千枝子の話は、あいつの神経のせいに違いないが、その時|風邪《かぜ》を引いたのだろう。翌日からかれこれ三日ばかりは、ずっと高い熱が続いて、「あなた、堪忍《かんにん》して下さい。」だの、「何故《なぜ》帰っていらっしゃらないんです。」だの、何か夫と話しているらしい譫言《うわごと》ばかり云っていた。が、鎌倉行きの祟《たた》りはそればかりではない。風邪《かぜ》がすっかり癒った後《あと》でも、赤帽と云う言
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