の又包みを抱いた霜焼けの手の中には、三等の赤切符が大事さうにしつかり握られてゐた。私はこの小娘の下品な顔だちを好まなかつた。それから彼女の服装が不潔なのもやはり不快だつた。最後にその二等と三等との区別さへも弁《わきま》へない愚鈍な心が腹立たしかつた。だから巻煙草に火をつけた私は、一つにはこの小娘の存在を忘れたいと云ふ心もちもあつて、今度はポツケツトの夕刊を漫然と膝の上へひろげて見た。すると其時夕刊の紙面に落ちてゐた外光が、突然電燈の光に変つて、刷《すり》の悪い何欄かの活字が意外な位|鮮《あざやか》に私の眼の前へ浮んで来た。云ふまでもなく汽車は今、横須賀線に多い隧道《トンネル》の最初のそれへはいつたのである。
 しかしその電燈の光に照らされた夕刊の紙面を見渡しても、やはり私の憂欝を慰むべく、世間は余りに平凡な出来事ばかりで持ち切つてゐた。講和問題、新婦新郎、涜職《とくしよく》事件、死亡広告――私は隧道へはいつた一瞬間、汽車の走つてゐる方向が逆になつたやうな錯覚を感じながら、それらの索漠とした記事から記事へ殆《ほとんど》機械的に眼を通した。が、その間も勿論あの小娘が、恰《あたか》も卑俗な現実を人間にしたやうな面持ちで、私の前に坐つてゐる事を絶えず意識せずにはゐられなかつた。この隧道の中の汽車と、この田舎者の小娘と、さうして又この平凡な記事に埋つてゐる夕刊と、――これが象徴でなくて何であらう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であらう。私は一切がくだらなくなつて、読みかけた夕刊を抛《はふ》り出すと、又窓枠に頭を靠《もた》せながら、死んだやうに眼をつぶつて、うつらうつらし始めた。
 それから幾分か過ぎた後であつた。ふと何かに脅《おびやか》されたやうな心もちがして、思はずあたりを見まはすと、何時《いつ》の間にか例の小娘が、向う側から席を私の隣へ移して、頻《しきり》に窓を開けようとしてゐる。が、重い硝子戸《ガラスど》は中々思ふやうにあがらないらしい。あの皸《ひび》だらけの頬は愈《いよいよ》赤くなつて、時々|鼻洟《はな》をすすりこむ音が、小さな息の切れる声と一しよに、せはしなく耳へはいつて来る。これは勿論私にも、幾分ながら同情を惹《ひ》くに足るものには相違なかつた。しかし汽車が今|将《まさ》に隧道《トンネル》の口へさしかからうとしてゐる事は、暮色の中に枯草ばかり明い両側
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