蜜柑
芥川龍之介

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)或《ある》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|瞥《べつ》した。
−−

 或《ある》曇った冬の日暮である。私《わたくし》は横須賀《よこすか》発上り二等客車の隅《すみ》に腰を下して、ぼんやり発車の笛を待っていた。とうに電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はいなかった。外を覗《のぞ》くと、うす暗いプラットフォオムにも、今日は珍しく見送りの人影さえ跡を絶って、唯《ただ》、檻《おり》に入れられた小犬が一匹、時々悲しそうに、吠《ほ》え立てていた。これらはその時の私の心もちと、不思議な位似つかわしい景色だった。私の頭の中には云いようのない疲労と倦怠《けんたい》とが、まるで雪曇りの空のようなどんよりした影を落していた。私は外套《がいとう》のポッケットへじっと両手をつっこんだまま、そこにはいっている夕刊を出して見ようと云う元気さえ起らなかった。
 が、やがて発車の笛が鳴った。私はかすかな心の寛《くつろ》ぎを感じながら、後《うしろ》の窓枠《まどわく》へ頭をもたせて、眼の前の停車場がずる
次へ
全9ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング