私は魔術を教えて貰う嬉しさに、何度もミスラ君へ御礼を言いました。が、ミスラ君はそんなことに頓着《とんちゃく》する気色《けしき》もなく、静に椅子から立上ると、
「御婆サン。御婆サン。今夜ハ御客様ガ御泊リニナルカラ、寝床ノ仕度ヲシテ置イテオクレ。」
 私は胸を躍らしながら、葉巻の灰をはたくのも忘れて、まともに石油ランプの光を浴びた、親切そうなミスラ君の顔を思わずじっと見上げました。

       ×          ×          ×

 私がミスラ君に魔術を教わってから、一月ばかりたった後《のち》のことです。これもやはりざあざあ雨の降る晩でしたが、私は銀座のある倶楽部《くらぶ》の一室で、五六人の友人と、暖炉《だんろ》の前へ陣取りながら、気軽な雑談に耽っていました。
 何しろここは東京の中心ですから、窓の外に降る雨脚《あまあし》も、しっきりなく往来する自働車や馬車の屋根を濡らすせいか、あの、大森《おおもり》の竹藪にしぶくような、ものさびしい音は聞えません。
 勿論窓の内の陽気なことも、明い電燈の光と言い、大きなモロッコ皮の椅子《いす》と言い、あるいはまた滑かに光っている寄木細工《よせぎざいく》の床《ゆか》と言い、見るから精霊《せいれい》でも出て来そうな、ミスラ君の部屋などとは、まるで比べものにはならないのです。
 私たちは葉巻の煙の中に、しばらくは猟《りょう》の話だの競馬の話だのをしていましたが、その内に一人の友人が、吸いさしの葉巻を暖炉《だんろ》の中に抛りこんで、私の方へ振り向きながら、
「君は近頃魔術を使うという評判《ひょうばん》だが、どうだい。今夜は一つ僕たちの前で使って見せてくれないか。」
「好いとも。」
 私は椅子の背に頭を靠《もた》せたまま、さも魔術の名人らしく、横柄《おうへい》にこう答えました。
「じゃ、何でも君に一任するから、世間の手品師《てじなし》などには出来そうもない、不思議な術を使って見せてくれ給え。」
 友人たちは皆賛成だと見えて、てんでに椅子をすり寄せながら、促すように私の方を眺めました。そこで私は徐《おもむろ》に立ち上って、
「よく見ていてくれ給えよ。僕の使う魔術には、種も仕掛《しかけ》もないのだから。」
 私はこう言いながら、両手のカフスをまくり上げて、暖炉の中に燃え盛《さか》っている石炭を、無造作《むぞうさ》に掌の上へすくい上げました。私を囲んでいた友人たちは、これだけでも、もう荒胆《あらぎも》を挫《ひし》がれたのでしょう。皆顔を見合せながらうっかり側へ寄って火傷《やけど》でもしては大変だと、気味悪るそうにしりごみさえし始めるのです。
 そこで私の方はいよいよ落着き払って、その掌の上の石炭の火を、しばらく一同の眼の前へつきつけてから、今度はそれを勢いよく寄木細工の床《ゆか》へ撒《ま》き散らしました。その途端です、窓の外に降る雨の音を圧して、もう一つ変った雨の音が俄《にわか》に床の上から起ったのは。と言うのはまっ赤な石炭の火が、私の掌《てのひら》を離れると同時に、無数の美しい金貨になって、雨のように床の上へこぼれ飛んだからなのです。
 友人たちは皆夢でも見ているように、茫然と喝采《かっさい》するのさえも忘れていました。
「まずちょいとこんなものさ。」
 私は得意の微笑を浮べながら、静にまた元の椅子に腰を下しました。
「こりゃ皆ほんとうの金貨かい。」
 呆気《あっけ》にとられていた友人の一人が、ようやくこう私に尋《たず》ねたのは、それから五分ばかりたった後のことです。
「ほんとうの金貨さ。嘘だと思ったら、手にとって見給え。」
「まさか火傷《やけど》をするようなことはあるまいね。」
 友人の一人は恐る恐る、床の上の金貨を手にとって見ましたが、
「成程こりゃほんとうの金貨だ。おい、給仕、箒《ほうき》と塵取りとを持って来て、これを皆掃き集めてくれ。」
 給仕はすぐに言いつけられた通り、床の上の金貨を掃き集めて、堆《うずたか》く側のテエブルへ盛り上げました。友人たちは皆そのテエブルのまわりを囲みながら、
「ざっと二十万円くらいはありそうだね。」
「いや、もっとありそうだ。華奢《きゃしゃ》なテエブルだった日には、つぶれてしまうくらいあるじゃないか。」
「何しろ大した魔術を習ったものだ。石炭の火がすぐに金貨になるのだから。」
「これじゃ一週間とたたない内に、岩崎や三井にも負けないような金満家になってしまうだろう。」などと、口々に私の魔術を褒《ほ》めそやしました。が、私はやはり椅子《いす》によりかかったまま、悠然と葉巻の煙を吐いて、
「いや、僕の魔術というやつは、一旦欲心を起したら、二度と使うことが出来ないのだ。だからこの金貨にしても、君たちが見てしまった上は、すぐにまた元の暖炉の中へ抛《ほう》りこん
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