麝香《じゃこう》か何かのように重苦しい※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]さえするのです。私はあまりの不思議さに、何度も感嘆《かんたん》の声を洩《もら》しますと、ミスラ君はやはり微笑したまま、また無造作《むぞうさ》にその花をテエブル掛の上へ落しました。勿論落すともとの通り花は織り出した模様になって、つまみ上げること所か、花びら一つ自由には動かせなくなってしまうのです。「どうです。訳はないでしょう。今度は、このランプを御覧なさい。」
ミスラ君はこう言いながら、ちょいとテエブルの上のランプを置き直しましたが、その拍子《ひょうし》にどういう訳か、ランプはまるで独楽《こま》のように、ぐるぐる廻り始めました。それもちゃんと一所《ひとところ》に止ったまま、ホヤを心棒《しんぼう》のようにして、勢いよく廻り始めたのです。初《はじめ》の内は私も胆《きも》をつぶして、万一火事にでもなっては大変だと、何度もひやひやしましたが、ミスラ君は静に紅茶を飲みながら、一向騒ぐ容子《ようす》もありません。そこで私もしまいには、すっかり度胸が据《すわ》ってしまって、だんだん早くなるランプの運動を、眼も離さず眺めていました。
また実際ランプの蓋《かさ》が風を起して廻る中に、黄いろい焔《ほのお》がたった一つ、瞬《またた》きもせずにともっているのは、何とも言えず美しい、不思議な見物《みもの》だったのです。が、その内にランプの廻るのが、いよいよ速《すみやか》になって行って、とうとう廻っているとは見えないほど、澄み渡ったと思いますと、いつの間《ま》にか、前のようにホヤ一つ歪《ゆが》んだ気色《けしき》もなく、テエブルの上に据っていました。
「驚きましたか。こんなことはほんの子供|瞞《だま》しですよ。それともあなたが御望みなら、もう一つ何か御覧に入れましょう。」
ミスラ君は後《うしろ》を振返って、壁側《かべぎわ》の書棚を眺めましたが、やがてその方へ手をさし伸ばして、招くように指を動かすと、今度は書棚に並んでいた書物が一冊ずつ動き出して、自然にテエブルの上まで飛んで来ました。そのまた飛び方が両方へ表紙を開いて、夏の夕方に飛び交う蝙蝠《こうもり》のように、ひらひらと宙へ舞上るのです。私は葉巻を口へ啣《くわ》えたまま、呆気《あっけ》にとられて見ていましたが、書物はうす暗いランプの光の中に何冊も自由に飛び廻って、一々行儀よくテエブルの上へピラミッド形に積み上りました。しかも残らずこちらへ移ってしまったと思うと、すぐに最初来たのから動き出して、もとの書棚へ順々に飛び還《かえ》って行くじゃありませんか。
が、中でも一番面白かったのは、うすい仮綴《かりと》じの書物が一冊、やはり翼のように表紙を開いて、ふわりと空へ上りましたが、しばらくテエブルの上で輪を描いてから、急に頁をざわつかせると、逆落《さかおと》しに私の膝へさっと下りて来たことです。どうしたのかと思って手にとって見ると、これは私が一週間ばかり前にミスラ君へ貸した覚えがある、仏蘭西《フランス》の新しい小説でした。
「永々《ながなが》御本を難有《ありがと》う。」
ミスラ君はまだ微笑を含んだ声で、こう私に礼を言いました。勿論《もちろん》その時はもう多くの書物が、みんなテエブルの上から書棚の中へ舞い戻ってしまっていたのです。私は夢からさめたような心もちで、暫時《ざんじ》は挨拶さえ出来ませんでしたが、その内にさっきミスラ君の言った、「私の魔術などというものは、あなたでも使おうと思えば使えるのです。」という言葉を思い出しましたから、
「いや、兼ね兼ね評判《ひょうばん》はうかがっていましたが、あなたのお使いなさる魔術が、これほど不思議なものだろうとは、実際、思いもよりませんでした。ところで私のような人間にも、使って使えないことのないと言うのは、御冗談ではないのですか。」
「使えますとも。誰にでも造作《ぞうさ》なく使えます。ただ――」と言いかけてミスラ君はじっと私の顔を眺めながら、いつになく真面目《まじめ》な口調になって、
「ただ、欲のある人間には使えません。ハッサン・カンの魔術を習おうと思ったら、まず欲を捨てることです。あなたにはそれが出来ますか。」
「出来るつもりです。」
私はこう答えましたが、何となく不安な気もしたので、すぐにまた後《あと》から言葉を添えました。
「魔術さえ教えて頂ければ。」
それでもミスラ君は疑わしそうな眼つきを見せましたが、さすがにこの上念を押すのは無躾《ぶしつけ》だとでも思ったのでしょう。やがて大様《おおよう》に頷《うなず》きながら、
「では教えて上げましょう。が、いくら造作なく使えると言っても、習うのには暇もかかりますから、今夜は私の所へ御泊《おとま》りなさい。」
「どうもいろいろ恐れ入ります。
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