邑井吉瓶《むらゐきつぺい》だけである。(もつとも典山《てんざん》とか伯山《はくざん》とか或は又|伯龍《はくりゆう》とかいふ新時代の芸術家を知らない訣《わけ》ではない。)従つて僕は講談を知る為めに大抵《たいてい》今村次郎《いまむらじらう》氏の速記本に依つた。しかし落語《らくご》は家族達と一しよに相生町《あひおひちやう》の広瀬《ひろせ》だの米沢町《よねざはちやう》(日本橋《にほんばし》区)の立花家《たちばなや》だのへ聞きに行つたものである。殊に度々《たびたび》行つたのは相生町の広瀬だつた。が、どういふ落語を聞いたかは生憎《あいにく》はつきりと覚えてゐない。唯|吉田国五郎《よしだくにごろう》の人形芝居を見たことだけは未《いま》だにありありと覚えてゐる。しかも僕の見た人形芝居は大抵《たいてい》小幡小平次《こばたこへいじ》とか累《かさね》とかいふ怪談物だつた。僕は近頃大阪へ行《ゆ》き、久振《ひさしぶ》りに文楽《ぶんらく》を見物した。けれども今日《こんにち》の文楽は僕の昔見た人形芝居よりも軽業《かるわざ》じみたけれん[#「けれん」に傍点]を使つてゐない。吉田国五郎の人形芝居は例へば清玄《せいげん》の庵室《あんしつ》などでも、血だけらな[#「血だらけな」の誤り?]清玄の幽霊は大夫《たいふ》の見台《けんだい》が二つに割れると、その中から姿を現はしたものである。寄席《よせ》の広瀬も焼けてしまつたであらう。今村次郎氏も明治病院の裏手に――僕は正直に白状すれば、今村次郎氏の現存してゐるかどうかも知らないものの一人《ひとり》である。
そのうちに僕は震災|前《ぜん》と――といふよりも寧《むし》ろ二十年|前《ぜん》と少しも変らないものを発見した。それは両国駅の引込み線を抑《おさ》へた、三尺に足りない草土手《くさどて》である。僕は実際この草土手に「国亡びて山河《さんか》在り」といふ詠嘆を感じずにはゐられなかつた。しかしこの小さい草土手にかういふ詠嘆を感じるのはそれ自身僕には情《なさけ》なかつた。
「お竹倉」
僕の知人は震災の為めに何人もこの界隈《かいわい》に斃《たふ》れてゐる。僕の妻の親戚などは男女九人の家族中、やつと命を全《まつた》うしたのは二十《はたち》前後の息子《むすこ》だけだつた。それも火の粉を防ぐ為めに戸板をかざして立つてゐたのを旋風の為めに捲《ま》き上げられ、安田家《やすだけ》の庭の池の側へ落ちてどうにか息を吹き返したのである。それから又僕の家へ毎日のやうに遊びに来た「お条《でう》さん」という人などは命だけは助かつたものの、一時は発狂したのも同様だつた。(「お条さん」は髪の毛の薄い為めに何処《どこ》へも片付かずにゐる人だつた。しかし髪の毛を生《は》やす為めに蝙蝠《かうもり》の血などを頭へ塗《ぬ》つてゐた。)最後に僕の通《かよ》つてゐた江東《かうとう》小学校の校長さんは両眼とも明《めい》を失つた上、前年にはたつた一人の息子を失ひ、震災の年には御夫婦とも焼け死んでしまつたとか言ふことだつた。僕も本所《ほんじよ》に住んでゐたとすれば、恐らくは矢張《やは》りこの界隈《かいわい》に火事を避けてゐたことであらう。従つて又僕は勿論、僕の家族も彼等のやうに非業《ひごふ》の最後を遂げてゐたかも知れない。僕は高い褐色の本所会館を眺めながら、こんなことをO君と話し合つたりした。
「しかし両国橋《りやうごくばし》を渡つた人は大抵《たいてい》助かつてゐたのでせう?」
「両国橋を渡つた人はね。……それでも元町《もとまち》通りには高圧線の落ちたのに触《ふ》れて死んだ人もあつたと言ふことですよ。」
「兎《と》に角《かく》東京中でも被服廠《ひふくしやう》程|大勢《おおぜい》焼け死んだところはなかつたのでせう。」
かういふ種々の悲劇のあつたのはいづれも昔の「お竹倉《たけぐら》」の跡である。僕の知つてゐた頃の「お竹倉」は大体「御維新《ごゐしん》」前《ぜん》と変らなかつたものの、もう総武《そうぶ》鉄道会社の敷地の中《うち》に加へられてゐた。僕はこの鉄道会社の社長の次男の友達だつたから、妄《みだ》りに人を入れなかつた「お竹倉」の中へも遊びに行つた。そこは前にも言つたやうに雑木林《ざふきばやし》や竹藪のある、町中《まちなか》には珍らしい野原だつた。のみならず古い橋のかかつた掘割りさへ大川《おほかは》に通じてゐた。僕は時々空気銃を肩にし、その竹藪や雑木林の中に半日を暮らしたものである。溝板《どぶいた》の上に育つた僕に自然の美しさを教へたものは何よりも先に「お竹倉」だつたであらう。僕は中学を卒業する前に英訳の「猟人日記《れふじんにつき》」を拾ひ読みにしながら、何度も「お竹倉」の中の景色を――「とりかぶと」の花の咲いた藪の陰《かげ》や大きい昼の月のかかつた雑木林の梢《こずゑ》を思ひ出したりした。「お竹倉」は勿論その頃には厳《いかめ》しい陸軍被服廠や両国駅に変つてゐた。けれども震災後の今日《こんにち》を思へば、――「卻《かへ》つて并州《へいしう》を望めば是《これ》故郷」と支那人の歌つたのも偶然ではない。
総武《そうぶ》鉄道の工事の始まつたのはまだ僕の小学時代だつたであらう。その以前の「お竹倉」は夜《よる》は「本所《ほんじよ》の七《なな》不思議」を思ひ出さずにはゐられない程もの寂しかつたのに違ひない。夜は?――いや、昼間さへ僕は「お竹倉」の中を歩きながら、「おいてき堀」や「片葉《かたは》の芦《あし》」は何処《どこ》かこのあたりにあるものと信じない訣《わけ》には行《ゆ》かなかつた。現に夜学に通《かよ》ふ途中、「お竹倉」の向うに莫迦囃《ばかばや》しを聞き、てつきりあれは「狸囃《たぬきばや》し」に違ひないと思つたことを覚えてゐる。それはおそらくは小学時代の僕|一人《ひとり》の恐怖ではなかつたのであらう。なんでも総武鉄道の工事中にそこへ通《かよ》つてゐた線路工夫の一人《ひとり》は宵闇の中に幽霊を見、気絶してしまつたとかいふことだつた。
「大川端」
本所《ほんじよ》会館は震災|前《ぜん》の安田家《やすだけ》の跡に建つたのであらう。安田家は確か花崗石《くわかうせき》を使つたルネサンス式の建築だつた。僕は椎《しひ》の木などの茂つた中にこの建築の立つてゐたのに明治時代そのものを感じてゐる。が、セセツシヨン式の本所会館は「牛乳デイ」とかいふものの為に植込みのある玄関の前に大きいポスタアを掲《かか》げたり、宣伝用の自動車を並べたりしてゐた。僕の水泳を習ひに行つた「日本游泳協会」は丁度《ちやうど》この河岸《かし》にあつたものである。僕はいつか何かの本に三代将軍|家光《いへみつ》は水泳を習ひに日本橋《にほんばし》へ出かけたと言ふことを発見し、滑稽に近い今昔《こんじやく》の感を催さない訣《わけ》には行《ゆ》かなかつた。しかし僕等の大川《おほかは》へ水泳を習ひに行つたと言ふことも後世《こうせい》には不可解に感じられるであらう。現に今でもO君などは「この川でも泳いだりしたものですかね」と少からず驚嘆してゐた。
僕は又この河岸《かし》にも昔に変らないものを発見した。それは――生憎《あいにく》何《なん》の木かはちよつと僕には見当《けんたう》もつかない。が、兎《と》に角《かく》新芽を吹いた昔の並《な》み木の一本である。僕の覚えてゐる柳の木は一本も今では残つてゐない。けれどもこの木だけは何かの拍子《ひやうし》に火事にも焼かれずに立つてゐるのであらう。僕は殆《ほとん》どこの木の幹に手を触《ふ》れて見たい誘惑を感じた。のみならずその木の根元には子供を連れたお婆《ばあ》さんが二人|曇天《どんてん》の大川を眺めながら、花見か何かにでも来てゐるやうに稲荷鮨《いなりずし》を食べて話し合つてゐた。
本所会館の隣にあるのは建築中の同愛《どうあい》病院である。高い鉄の櫓《やぐら》だの、何階建かのコンクリイトの壁だの、殊《こと》に砂利《じやり》を運ぶ人夫《にんぷ》だのは確かに僕を威圧するものだつた。同時に又工業地になつた「本所の玄関」といふ感じを打ち込まなければ措《お》かないものだつた。僕は半裸体の工夫《こうふ》が一人《ひとり》、汗に体を輝かせながら、シヤベルを動かしてゐるのを見、本所全体もこの工夫のやうに烈しい生活をしてゐることを感じた。この界隈《かいわい》の家々の上に五月|幟《のぼり》の翻《ひるがへ》つてゐたのは僕の小学時代の話である。今では、――誰も五月|幟《のぼり》よりは新しい日本の年中行事になつたメイ・デイを思ひ出すのに違ひない。
僕は昔この辺にあつた「御蔵橋《おくらばし》」と言ふ橋を渡り、度々《たびたび》友綱《ともづな》の家《うち》の側にあつた或友達の家《うち》へ遊びに行つた。彼も亦《また》海軍の将校になつた後《のち》、二三年|前《ぜん》に故人になつてゐる。しかし僕の思ひ出したのは必《かならず》しも彼のことばかりではない。彼の住んでゐた家のあたり、――瓦屋根の間《あひだ》に樹木《じゆもく》の見える横町《よこちやう》のことも思ひ出したのである。そこは僕の住んでゐた元町《もとまち》通りに比《くら》べると、はるかに人通りも少なければ「しもた家《や》」も殆《ほとん》ど門並《かどな》みだつた。「椎《しひ》の木《き》松浦《まつうら》」のあつた昔は暫《しばら》く問はず、「江戸の横網《よこあみ》鶯の鳴く」と北原白秋《きたはらはくしう》氏の歌つた本所《ほんじよ》さへ今ではもう「歴史的|大川端《おほかははた》」に変つてしまつたと言ふ外はない。如何《いか》に万法《ばんぱふ》は流転《るてん》するとはいへ、かういふ変化の絶え間《ま》ない都会は世界中にも珍らしいであらう。
僕等はいつか工事場らしい板囲《いたかこ》ひの前に通りかかつた。そこにも労働者が二三人、せつせと槌《つち》を動かしながら、大きい花崗石《くわかうせき》を削《けづ》つてゐた。のみならず工事中の鉄橋さへ泥濁りに濁つた大川の上へ長々と橋梁《はしげた》を横たへてゐた。僕はこの橋の名前は勿論、この橋の出来る話も聞いたことはなかつた。震災は僕等の後《うしろ》にある「富士見《ふじみ》の渡し」を滅してしまつた。が、その代りに僕等の前に新しい鉄橋を造らうとしてゐる。……
「これは何《なん》といふ橋ですか?」
麦藁帽を冠《かぶ》つた労働者の一人《ひとり》は矢張《やは》り槌を動かしたまま、ちよつと僕の顔を見上げ、存外《ぞんぐわい》親切に返事をした。
「これですか? これは蔵前橋《くらまえばし》です。」
「一銭蒸汽」
僕等はそこから引き返して川蒸汽《かはじようき》の客になる為に横網《よこあみ》の浮き桟橋《さんばし》へおりて行つた。昔はこの川蒸汽も一銭蒸汽と呼んだものである。今はもう賃銭も一銭ではない。しかし五銭出しさへすれば、何区でも勝手に行《ゆ》かれるのである。けれども屋根のある浮き桟橋は――震災は勿論この浮き桟橋も炎《ほのほ》にして空へ立ち昇《のぼ》らせたのであらう。が、一見した所は明治時代に変つてゐない。僕等はベンチに腰をおろし、一本の巻煙草に火をつけながら、川蒸汽の来るのを待つことにした。「石垣にはもう苔《こけ》が生えてゐますね。もつとも震災以来四五年になるが、……」
僕はふとこんなことを言ひ、O君の為に笑はれたりした。
「苔の生えるのは当り前であります[#「であります」に傍点]。」
大川《おほかは》は前にも書いたやうに一面に泥濁《どろにご》りに濁つてゐる。それから大きい浚渫船《しゆんせつせん》が一艘|起重機《きぢゆうき》を擡《もた》げた向う河岸《がし》も勿論「首尾《しゆび》の松」や土蔵《どざう》の多い昔の「一番堀《いちばんぼり》」や「二番堀《にばんぼり》」ではない。最後に川の上を通る船も今では小蒸汽《こじようき》や達磨船《だるまぶね》である。五大力《ごだいりき》、高瀬船《たかせぶね》、伝馬《てんま》、荷足《にたり》、田船《たぶね》などといふ大小の和船も何時《いつ》の間《ま》にか流転《るてん》の力に押し流されたのであらう。僕はO君と話
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