国)の絵草紙《ゑざうし》屋へ行《ゆ》き、石版刷《せきばんずり》の戦争の絵を時々一枚づつ買つたものである。それ等の絵には義和団《ぎわだん》の匪徒《ひと》や英吉利《イギリス》兵などは斃《たふ》れてゐても、日本兵は一人も斃れてゐなかつた。僕はもうその時にも矢張《やは》り日本兵も一人位《ひとりくらゐ》は死んでゐるのに違ひないと思つたりした。しかし日露役の起つた時には徹頭徹尾|露西亜《ロシア》位悪い国はないと信じてゐた。僕のリアリズムは年と共に発達する訣《わけ》には行《ゆ》かなかつたのであらう。もつともそれは僕の知人なども出征してゐた為めもあるかも知れない。この知人は南山《なんざん》の戦《たたかひ》に鉄条網《てつでうまう》にかかつて戦死してしまつた。鉄条網といふ言葉は今日《こんにち》では誰も知らない者はない。けれども日露役の起つた時には全然在来の辞書にない、新しい言葉の一つだつたのである。僕は大きい表忠碑を眺め、今更のやうに二十年|前《ぜん》の日本を考へずにはゐられなかつた。同時に又ちよつと表忠碑にも時代錯誤に近いものを感じない訣《わけ》には行《ゆ》かなかつた。
 この表忠碑の後《うしろ》には確か両国劇場《りやうごくげきぢやう》といふ芝居小屋の出来る筈になつてゐた。現に僕は震災|前《ぜん》にも落成しない芝居小屋の煉瓦壁《れんぐわべい》を見たことを覚えてゐる。けれども今は薄汚《うすぎた》ない亜鉛葺《トタンぶ》きのバラツクの外《ほか》に何も芝居小屋らしいものは見えなかつた。もつとも僕は両国の鉄橋に愛惜《あいじやく》を持つてゐないやうにこの煉瓦建《れんぐわだて》の芝居小屋にも格別の愛惜を持つてゐない。両国橋の木造だつた頃には駒止《こまと》め橋《ばし》もこの辺に残つてゐた。のみならず井生村楼《ゐぶむらろう》や二州楼《にしうろう》といふ料理屋も両国橋の両側に並んでゐた。その外《ほか》に鮨屋《すしや》の与平《よへい》、鰻屋《うなぎや》の須崎屋《すさきや》、牛肉の外《ほか》にも冬になると猪《しし》や猿を食はせる豊田屋《とよだや》、それから回向院《ゑかうゐん》の表門に近い横町《よこちやう》にあつた「坊主《ぼうず》軍鶏《しやも》」――かう一々数へ立てて見ると、本所《ほんじよ》でも名高い食物屋《くひものや》は大抵《たいてい》この界隈《かいわい》に集つてゐたらしい。

     「富士見の渡し」

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