あ、あの藍問屋《あゐどんや》の娘さんか。」
妻「ええ、兄《にい》さんの好きだつた人。」
僕「あの家《うち》どうだつたかな。兄さんの為にも見て来るんだつけ。尤《もつと》も前は通つたんだけれども。」
伯母「あたしは地震の年以来一度も行つたことはないんだから、――行つても驚くだらうけれども。」
僕「それは驚くだけですよ。伯母《をば》さんには見当《けんたう》もつかないかも知れない。」
父「何しろ変りも変つたからね。そら、昔は夕がたになると、みんな門を細目《ほそめ》にあけて往来《わうらい》を見てゐたもんだらう?」
母「法界節《ほふかいぶし》や何かの帰つて来るのをね。」
伯母「あの時分は蝙蝠《かうもり》も沢山《たくさん》ゐたでせう。」
僕「今は雀さへ飛んでゐませんよ。僕は実際|無常《むじやう》を感じてね。……それでも一度行つてごらんなさい。まだずんずん変らうとしてゐるから。」
妻「わたしは一度子供たちに亀井戸《かめゐど》の太鼓橋《たいこばし》を見せてやりたい。」
父「臥龍梅《ぐわりゆうばい》はもうなくなつたんだらうな?」
僕「ええ、あれはもうとうに。……さあ、これから驚いたと云ふことを十五回だけ書かなければならない。」
妻「驚いた、驚いたと書いてゐれば善《い》いのに。」(笑ふ)
僕「その外《ほか》に何も書けるもんか。若し何か書けるとすれば、……さうだ。このポケツト本の中にちやんともう誰か書き尽してゐる。――『玉敷《たましき》の都の中に、棟《むね》を並べ甍《いらか》を争へる、尊《たか》き卑《いや》しき人の住居《すまひ》は、代々《よよ》を経《へ》てつきせぬものなれど、これをまことかと尋《たづ》ぬれば、昔ありし家は稀《まれ》なり。……いにしへ見し人は、二三十人が中に、僅に一人《ひとり》二人《ふたり》なり。朝《あした》に死し、夕《ゆふべ》に生まるるならひ、ただ水の泡《あわ》にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方《いづかた》より来りて、何方《いづかた》へか去る。』……」
母「何だえ、それは? 『お文様《ふみさま》』のやうぢやないか?」
僕「これですか? これは『方丈記《はうぢやうき》』ですよ。僕などよりもちよつと偉かつた鴨《かも》の長明《ちやうめい》と云ふ人の書いた本ですよ。」
[#地から1字上げ](昭和二年五月)
底本:「芥川龍之介全集 第四巻」
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