中にも珍らしいであらう。
 僕等はいつか工事場らしい板囲《いたかこ》ひの前に通りかかつた。そこにも労働者が二三人、せつせと槌《つち》を動かしながら、大きい花崗石《くわかうせき》を削《けづ》つてゐた。のみならず工事中の鉄橋さへ泥濁りに濁つた大川の上へ長々と橋梁《はしげた》を横たへてゐた。僕はこの橋の名前は勿論、この橋の出来る話も聞いたことはなかつた。震災は僕等の後《うしろ》にある「富士見《ふじみ》の渡し」を滅してしまつた。が、その代りに僕等の前に新しい鉄橋を造らうとしてゐる。……
「これは何《なん》といふ橋ですか?」
 麦藁帽を冠《かぶ》つた労働者の一人《ひとり》は矢張《やは》り槌を動かしたまま、ちよつと僕の顔を見上げ、存外《ぞんぐわい》親切に返事をした。
「これですか? これは蔵前橋《くらまえばし》です。」

     「一銭蒸汽」

 僕等はそこから引き返して川蒸汽《かはじようき》の客になる為に横網《よこあみ》の浮き桟橋《さんばし》へおりて行つた。昔はこの川蒸汽も一銭蒸汽と呼んだものである。今はもう賃銭も一銭ではない。しかし五銭出しさへすれば、何区でも勝手に行《ゆ》かれるのである。けれども屋根のある浮き桟橋は――震災は勿論この浮き桟橋も炎《ほのほ》にして空へ立ち昇《のぼ》らせたのであらう。が、一見した所は明治時代に変つてゐない。僕等はベンチに腰をおろし、一本の巻煙草に火をつけながら、川蒸汽の来るのを待つことにした。「石垣にはもう苔《こけ》が生えてゐますね。もつとも震災以来四五年になるが、……」
 僕はふとこんなことを言ひ、O君の為に笑はれたりした。
「苔の生えるのは当り前であります[#「であります」に傍点]。」
 大川《おほかは》は前にも書いたやうに一面に泥濁《どろにご》りに濁つてゐる。それから大きい浚渫船《しゆんせつせん》が一艘|起重機《きぢゆうき》を擡《もた》げた向う河岸《がし》も勿論「首尾《しゆび》の松」や土蔵《どざう》の多い昔の「一番堀《いちばんぼり》」や「二番堀《にばんぼり》」ではない。最後に川の上を通る船も今では小蒸汽《こじようき》や達磨船《だるまぶね》である。五大力《ごだいりき》、高瀬船《たかせぶね》、伝馬《てんま》、荷足《にたり》、田船《たぶね》などといふ大小の和船も何時《いつ》の間《ま》にか流転《るてん》の力に押し流されたのであらう。僕はO君と話
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