》を思ひ出したりした。「お竹倉」は勿論その頃には厳《いかめ》しい陸軍被服廠や両国駅に変つてゐた。けれども震災後の今日《こんにち》を思へば、――「卻《かへ》つて并州《へいしう》を望めば是《これ》故郷」と支那人の歌つたのも偶然ではない。
総武《そうぶ》鉄道の工事の始まつたのはまだ僕の小学時代だつたであらう。その以前の「お竹倉」は夜《よる》は「本所《ほんじよ》の七《なな》不思議」を思ひ出さずにはゐられない程もの寂しかつたのに違ひない。夜は?――いや、昼間さへ僕は「お竹倉」の中を歩きながら、「おいてき堀」や「片葉《かたは》の芦《あし》」は何処《どこ》かこのあたりにあるものと信じない訣《わけ》には行《ゆ》かなかつた。現に夜学に通《かよ》ふ途中、「お竹倉」の向うに莫迦囃《ばかばや》しを聞き、てつきりあれは「狸囃《たぬきばや》し」に違ひないと思つたことを覚えてゐる。それはおそらくは小学時代の僕|一人《ひとり》の恐怖ではなかつたのであらう。なんでも総武鉄道の工事中にそこへ通《かよ》つてゐた線路工夫の一人《ひとり》は宵闇の中に幽霊を見、気絶してしまつたとかいふことだつた。
「大川端」
本所《ほんじよ》会館は震災|前《ぜん》の安田家《やすだけ》の跡に建つたのであらう。安田家は確か花崗石《くわかうせき》を使つたルネサンス式の建築だつた。僕は椎《しひ》の木などの茂つた中にこの建築の立つてゐたのに明治時代そのものを感じてゐる。が、セセツシヨン式の本所会館は「牛乳デイ」とかいふものの為に植込みのある玄関の前に大きいポスタアを掲《かか》げたり、宣伝用の自動車を並べたりしてゐた。僕の水泳を習ひに行つた「日本游泳協会」は丁度《ちやうど》この河岸《かし》にあつたものである。僕はいつか何かの本に三代将軍|家光《いへみつ》は水泳を習ひに日本橋《にほんばし》へ出かけたと言ふことを発見し、滑稽に近い今昔《こんじやく》の感を催さない訣《わけ》には行《ゆ》かなかつた。しかし僕等の大川《おほかは》へ水泳を習ひに行つたと言ふことも後世《こうせい》には不可解に感じられるであらう。現に今でもO君などは「この川でも泳いだりしたものですかね」と少からず驚嘆してゐた。
僕は又この河岸《かし》にも昔に変らないものを発見した。それは――生憎《あいにく》何《なん》の木かはちよつと僕には見当《けんたう》もつかない。
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