ウれない。しかし僕にはなつかしい本の一つである。ピルグリムス・プログレスは、日本でも訳して天路歴程《てんろれきてい》と云ふが、これはこの本に学んだのであらう。本文《ほんもん》の訳もまづ正しい。所々《しよ/\》の詩も韻文訳《いんぶんやく》である。「路旁生命水清流《ろばうのせいめいみづきよくながる》 天路行人喜暫留《てんろのかうじんよろこびしばらくとどまる》 百果奇花供悦楽《ひやくくわきくわえつらくにきようす》 吾儕幸得此埔遊《わがさいさいはひにえたりこのほのいう》」――大体こんなものと思へば好《よ》い。面白いのは銅版画の挿画《さしゑ》に、どれも支那人が描《か》いてある事である。Beautiful の宮殿へ来た所なども、やはり支那風の宮殿の前に、支那人の Christian が歩いてゐる。この本は清朝《しんてう》の同治《どうぢ》八年(千八百六十九年)蘇松《そしよう》上海《シヤンハイ》華草書院《くわさうしよいん》の出版である。序に「至咸豊三年中国士子与耶蘇教師参訳始成《かんぽうさんねんにいたりちうこくのししやそけうしとさんやくはじめてなる》」とあるから、この前にも訳本は出てゐたものらしい。訳者の名は全然不明である。この夏、北京《ペキン》の八大胡同《はちだいことう》へ行つた時、或|清吟小班《せいぎんせうはん》の妓の几《つくゑ》に、漢訳のバイブルがあるのを見た。天路歴程の読者の中にも、あんな麗人があつたかも知れない。
Byron の詩
僕は John Murray が出した、千八百二十一年版のバイロンの詩集を持つてゐる。内容は Sardanapalus, The Two Foscari, Cain の三種だけである。ケエンには千八百二十一年の序があるから、或は他の二つの悲劇と共に、この詩集がその初版かも知れない。これも検《しら》べて見ようと思ひながら、未《いまだ》にその儘|打遣《うつちや》つてある。バイロンはサアダナペエラスをゲエテに、ケエンをスコツトに献じてゐる。事によると彼等が読んだのも、僕の持つてゐる詩集のやうに、印刷の拙《つたな》い本だつたかも知れない。僕はそんな事を考へながら、時々唯気まぐれに、黄ばんだペエヂを繰つて見る事がある。僕にこの本を贈つたのは、海軍教授|豊島定《としまさだ》氏である。僕は海軍の学校にゐた時、難解の英文を教へて貰つたり、時にはお金を借して貰つたり、いろいろ豊島氏の世話になつた。豊島氏は鮭《さけ》が大好きである。この頃は毎日晩酌の膳《ぜん》に、生鮭《なまざけ》、塩鮭《しほざけ》、粕漬《かすづけ》の鮭なぞが、代る代る載《の》つてゐるかも知れない。僕はこの本をひろげる時には、そんな事も亦《また》思ふ事がある。が、バイロンその人の事は、殆《ほとんど》念頭に浮べた事がない。たまに思ひ出せば五六年以前に、マゼツパやドン・ジユアンを読みかけた儘、どちらも読まずにしまつた事だけである。どうも僕はバイロンには、縁《えん》なき衆生《しゆじやう》に過ぎないらしい。
かげ草
これは夢の話である。僕は夢に従姉《いとこ》の子供と、三越《みつこし》の二階を歩いてゐた。すると書籍部と札《ふだ》を出した台に、Quarto 版の本が一冊出てゐた。誰の本かと思つたら、それが森《もり》先生の「かげ草」だつた。台の前に立つた儘、好《い》い加減に二三枚あけて見ると、希臘《ギリシヤ》の話らしい小説が出て来た。文章は素直《すなほ》な和文だつた。「これは小金井《こがねゐ》きみ子女史の訳かも知れない。何時《いつ》か古今奇観《ここんきくわん》を読んでゐたら、村田春海《むらたはるみ》の竺志船物語《つくしぶねのものがたり》と、ちつとも違はない話が出て来た。この訳の原文は何かしら。」――夢の中の僕はそんな事を思つた。が、その小説のしまひを読んだら、「わか葉生《ばせい》訳」と書いてあつた。もう少し先をあけて見ると、今度は写真版が沢山《たくさん》出て来た。みんな森先生の書画だつた。何《なん》でも蓮《はす》の画と不二見西行《ふじみさいぎやう》の画とがあつた。写真版の次は書簡集だつた。「子供が死んだから、小説は書けない。御寛恕《ごくわんじよ》下さい」と云ふのがあつた。宛《あて》は畑耕一《はたかういち》氏だつた。永井荷風《ながゐかふう》氏宛のも沢山《たくさん》あつた。それは皆どう云ふ訣《わけ》か、荷風堂《かふうだう》先生と云ふ宛名だつた。「荷風堂は可笑《をか》しいな。森先生ともあらうものが。」――夢の中の僕はそんな事も思つた。それぎり夢はさめてしまつた。僕はその日|五山館《ござんくわん》詩集に、森先生の署せられた字を見てゐた。それから畑耕一《はたかういち》氏に、煙草を一箱貰つてゐた。さう云ふ事が夢の中に何時《いつ》か織りこまれてゐたと見える
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