は人の悪い笑い顔をしたまま、僕の手に古い望遠鏡を渡した。いつかどこかの博物館に並んでいたような望遠鏡である。
「オオ、サンクス。」
僕は思わず英吉利《イギリス》語を使った。しかし老人は無頓着《むとんじゃく》に島の影を指さしながら、巧みに日本語をしゃべりつづけた。その指さした袖《そで》の先にも泡のようにレエスがはみ出している。
「あの島はサッサンラップと云うのですがね。綴りですか? 綴りはSUSSANRAPです。一見《いっけん》の価値のある島ですよ。この船も五六日は碇泊《ていはく》しますから、ぜひ見物にお出かけなさい。大学もあれば伽藍《がらん》もあります。殊に市《いち》の立つ日は壮観ですよ。何しろ近海の島々から無数の人々が集まりますからね。……」
僕は老人のしゃべっている間《あいだ》に望遠鏡を覗いて見た。ちょうど鏡面《きょうめん》に映《うつ》っているのはこの島の海岸の市街《まち》であろう。小綺麗《こぎれい》な家々の並んだのが見える。並木の梢《こずえ》に風のあるのが見える。伽藍《がらん》の塔の聳えたのが見える。靄《もや》などは少しもかかっていない。何もかもことごとくはっきりと見える。僕は大いに感心しながら、市街《まち》の上へ望遠鏡を移した。と同時に僕の口はあっと云う声を洩らしそうになった。
鏡面には雲一つ見えない空に不二《ふじ》に似た山が聳えている。それは不思議でも何でもない。けれどもその山は見上げる限り、一面に野菜に蔽《おお》われている。玉菜《たまな》、赤茄子《あかなす》、葱《ねぎ》、玉葱《たまねぎ》、大根《だいこん》、蕪《かぶ》、人参《にんじん》、牛蒡《ごぼう》、南瓜《かぼちゃ》、冬瓜《とうがん》、胡瓜《きゅうり》、馬鈴薯《ばれいしょ》、蓮根《れんこん》、慈姑《くわい》、生姜《しょうが》、三つ葉――あらゆる野菜に蔽われている。蔽われている? 蔽わ――そうではない。これは野菜を積み上げたのである。驚くべき野菜のピラミッドである。
「あれは――あれはどうしたのです?」
僕は望遠鏡を手にしたまま、右隣の老人をふり返った。が、老人はもうそこにいない。ただ籐の長椅子の上に新聞が一枚|抛《ほう》り出してある。僕はあっと思った拍子《ひょうし》に脳貧血か何か起したのであろう。いつかまた妙に息苦しい無意識の中に沈んでしまった。
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