着物はその拍子《ひょうし》にすっかり泥になってしまった。それでも彼は飛び起きるが早いか、いきなり金三へむしゃぶりついた。金三も不意を食ったせいか、いつもは滅多《めった》に負けた事のないのが、この時はべたりと尻餅《しりもち》をついた。しかもその尻餅の跡は百合の芽の直《すぐ》に近所だった。
「喧嘩《けんか》ならこっちへ来い。百合の芽を傷《いた》めるからこっちへ来い。」
 金三は顋《あご》をしゃくいながら、桑畑の畔《くろ》へ飛び出した。良平もべそをかいたなり、やむを得ずそこへ出て行った。二人はたちまち取組《とっく》み合いを始めた。顔を真赤にした金三は良平の胸ぐらを掴《つか》まえたまま、無茶苦茶に前後へこづき廻した。良平はふだんこうやられると、たいてい泣き出してしまうのだった。しかしその朝は泣き出さなかった。のみならず頭がふらついて来ても、剛情《ごうじょう》に相手へしがみついていた。
 すると桑の間から、突然誰かが顔を出した。
「はえ、まあ、お前さんたちは喧嘩かよう。」
 二人はやっと掴《つか》み合いをやめた。彼等の前には薄痘痕《うすいも》のある百姓の女房が立っていた。それはやはり惣吉《そうきち》と云う学校友だちの母親だった。彼女は桑を摘《つ》みに来たのか、寝間着に手拭《てぬぐい》をかぶったなり、大きい笊《ざる》を抱えていた。そうして何か迂散《うさん》そうに、じろじろ二人を見比べていた。
「相撲《すもう》だよう。叔母《おば》さん。」
 金三はわざと元気そうに云った。が、良平は震《ふる》えながら、相手の言葉を打ち切るように云った。
「嘘つき! 喧嘩だ癖に!」
「手前こそ嘘つきじゃあ。」
 金三は良平の、耳朶《みみたぶ》を掴《つか》んだ。が、まだ仕合せと引張らない内に、怖い顔をした惣吉の母は楽々《らくらく》とその手を※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12] 《も》ぎ離した。
「お前さんはいつも乱暴だよう。この間うちの惣吉の額《ひたい》に疵《きず》をつけたのもお前さんずら。」
 良平は金三の叱られるのを見ると、「ざまを見ろ」と云いたかった。しかしそう云ってやるより前に、なぜか涙がこみ上げて来た。そのとたんにまた金三は惣吉の母の手を振り離しながら、片足ずつ躍るように桑の中を向うへ逃げて行った。
「日金山《ひがねやま》が曇った! 良平の目から雨が降る!」

       ―――――――――――――――――――――――――

 その翌日は夜明け前から、春には珍らしい大雨《おおあめ》だった。良平《りょうへい》の家《うち》では蚕に食わせる桑の貯《たくわ》えが足りなかったから、父や母は午頃《ひるごろ》になると、蓑《みの》の埃《ほこり》を払ったり、古い麦藁帽《むぎわらぼう》を探し出したり、畑へ出る仕度《したく》を急ぎ始めた。が、良平はそう云う中にも肉桂《にっけい》の皮を噛《か》みながら、百合《ゆり》の事ばかり考えていた。この降りでは事によると、百合の芽も折られてしまったかも知れない。それとも畑の土と一しょに、球根《たま》ごとそっくり流されはしないか?……
「金三《きんぞう》のやつも心配ずら。」
 良平はまたそうも思った。すると可笑《おか》しい気がした。金三の家は隣だから、軒伝《のきづた》いに行きさえすれば、傘《かさ》をさす必要もないのだった。しかし昨日《きのう》の喧嘩《けんか》の手前、こちらからは遊びに行きたくなかった。たとい向うから遊びに来ても、始《はじめ》は口一つ利《き》かずにいてやる。そうすればあいつも悄気《しょげ》るのに違いない。………(未完)
[#地から1字上げ](大正十一年九月)



底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
   1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月8日公開
2004年3月9日修正
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