]。」
 金三は狡《ず》るそうに母の方を見てから、そっと良平の裾《すそ》を引いた。二本芽の赤芽のちんぼ芽の百合を見る、――このくらい大きい誘惑はなかった。良平は返事もしない内に、母の藁草履《わらぞうり》へ足をかけた。藁草履はじっとり湿《しめ》った上、鼻緒《はなお》も好《い》い加減|緩《ゆる》んでいた。
「良平! これ! 御飯を食べかけて、――」
 母は驚いた声を出した。が、もう良平はその時には、先に立って裏庭を駈《か》け抜けていた。裏庭の外《そと》には小路《こうじ》の向うに、木の芽の煙《けぶ》った雑木林《ぞうきばやし》があった。良平はそちらへ駈けて行こうとした。すると金三は「こっちだよう」と一生懸命に喚《わめ》きながら、畑のある右手へ走って行った。良平は一足《ひとあし》踏み出したなり、大仰《おおぎょう》にぐるりと頭を廻すと、前こごみにばたばた駈け戻って来た。なぜか彼にはそうしないと、勇ましい気もちがしないのだった。
「なあんだね、畑の土手《どて》にあるのかね?」
「ううん、畑の中にあるんだよ。この向うの麦畑の……」
 金三はこう云いかけたなり、桑畑の畔《あぜ》へもぐりこんだ。桑畑の中生十文字《なかてじゅうもんじ》はもう縦横《たてよこ》に伸ばした枝に、二銭銅貨ほどの葉をつけていた。良平もその枝をくぐりくぐり、金三の跡《あと》を追って行った。彼の直《すぐ》鼻の先には継《つぎ》の当った金三の尻に、ほどけかかった帯が飛び廻っていた。
 桑畑を向うに抜けた所はやっと節立《ふしだ》った麦畑だった。金三は先に立ったまま、麦と桑とに挟《はさ》まれた畔をもう一度右へ曲りかけた。素早い良平はその途端《とたん》に金三の脇《わき》を走り抜けた。が、三間と走らない内に、腹を立てたらしい金三の声は、たちまち彼を立止らせてしまった。
「何だい、どこにあるか知ってもしない癖に!」
 悄気《しょげ》返った良平はしぶしぶまた金三を先に立てた。二人はもう駈《か》けなかった。互にむっつり黙ったまま、麦とすれすれに歩いて行った。しかしその麦畑の隅の、土手の築いてある側へ来ると、金三は急に良平の方へ笑い顔を振り向けながら、足もとの畦《うね》を指《さ》して見せた。
「こう、ここだよ。」
 良平もそう云われた時にはすっかり不機嫌《ふきげん》を忘れていた。
「どうね? どうね?」
 彼はその畦を覗《のぞ》きこんだ。
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング