茶室の外へ、大胆《だいたん》にも忍んで行ったのです。わたしは囲いの障子越しに、一切《いっさい》の話を立ち聞きました。
「お父さん。北条屋《ほうじょうや》を救った甚内《じんない》は、わたしたち一家の恩人です。わたしは甚内の身に危急《ききゅう》があれば、たとえ命は抛《なげう》っても、恩に報いたいと決心しました。またこの恩を返す事は、勘当を受けた浮浪人《ふろうにん》のわたしでなければ出来ますまい。わたしはこの二年間、そう云う機会を待っていました。そうして、――その機会が来たのです。どうか不孝の罪は勘忍して下さい。わたしは極道《ごくどう》に生れましたが、一家の大恩だけは返しました。それがせめてもの心やりです。……」
わたしは宅へ帰る途中も、同時に泣いたり笑ったりしながら、倅《せがれ》のけなげさを褒《ほ》めてやりました。あなたは御存知になりますまいが、倅の弥三郎《やさぶろう》もわたしと同様、御宗門《ごしゅうもん》に帰依《きえ》して居りましたから、もとは「ぽうろ」と云う名前さえも、頂いて居ったものでございます。しかし、――しかし倅も不運なやつでございました。いや、倅ばかりではございません。わたしもあの阿媽港甚内《あまかわじんない》に一家の没落さえ救われなければ、こんな嘆きは致しますまいに。いくら未練《みれん》だと思いましても、こればかりは切《せつ》のうございます。分散せずにいた方が好《よ》いか、倅を殺さずに置いた方が好いか、――(突然苦しそうに)どうかわたしを御救い下さい。わたしはこのまま生きていれば、大恩人の甚内を憎むようになるかも知れません。………(永い間《あいだ》の歔欷《すすりなき》)
「ぽうろ」弥三郎の話
ああ、おん母「まりや」様! わたしは夜《よ》が明け次第、首を打たれる事になっています。わたしの首は地に落ちても、わたしの魂《たましい》は小鳥のように、あなたの御側へ飛んで行くでしょう。いや、悪事ばかり働いたわたしは、「はらいそ」(天国)の荘厳《しょうごん》を拝する代りに、恐しい「いんへるの」(地獄)の猛火の底へ、逆落《さかおと》しになるかも知れません。しかしわたしは満足です。わたしの心には二十年来、このくらい嬉しい心もちは、宿った事がないのです。
わたしは北条屋弥三郎《ほうじょうややさぶろう》です。が、わたしの曝《さら》し首《くび》は、阿媽港甚内《あまかわじんない》と呼ばれるでしょう。わたしがあの阿媽港甚内、――これほど愉快《ゆかい》な事があるでしょうか? 阿媽港甚内、――どうです? 好《い》い名前ではありませんか? わたしはその名前を口にするだけでも、この暗い牢《ろう》の中さえ、天上の薔薇《ばら》や百合《ゆり》の花に、満ち渡るような心もちがします。
忘れもしない二年|前《ぜん》の冬、ちょうどある大雪の夜《よる》です。わたしは博奕《ばくち》の元手《もとで》が欲しさに、父の本宅へ忍びこみました。ところがまだ囲いの障子《しょうじ》に、火影《ほかげ》がさしていましたから、そっとそこを窺《うかが》おうとすると、いきなり誰か言葉もかけず、わたしの襟上《えりがみ》を捉《とら》えたものがあります。振り払う、また掴《つか》みかかる、――相手は誰だか知らないのですが、その力の逞《たくま》しい事は、到底ただものとは思われません。のみならず二三度|揉《も》み合う内に、茶室の障子が明《あ》いたと思うと、庭へ行燈《あんどん》をさし出したのは、紛《まぎ》れもない父の弥三右衛門《やそうえもん》です。わたしは一生懸命に、掴《つか》まれた胸倉《むなぐら》を振り切りながら、高塀の外へ逃げ出しました。
しかし半町《はんちょう》ほど逃げ延びると、わたしはある軒下《のきした》に隠れながら、往来の前後を見廻しました。往来には夜目にも白々《しろじろ》と、時々雪煙りが揚《あが》るほかには、どこにも動いているものは見えません。相手は諦《あきら》めてしまったのか、もう追いかけても来ないようです。が、あの男は何ものでしょう? 咄嗟《とっさ》の間《あいだ》に見た所では、確かに僧形《そうぎょう》をしていました。が、さっきの腕の強さを見れば、――殊に兵法にも精《くわ》しいのを見れば、世の常の坊主ではありますまい。第一こう云う大雪の夜《よ》に、庭先へ誰か坊主《ぼうず》が来ている、――それが不思議ではありませんか? わたしはしばらく思案した後《のち》、たとい危《あぶな》い芸当にしても、とにかくもう一度茶室の外へ、忍び寄る事に決心しました。
それから一時《いっとき》ばかりたった頃《ころ》です。あの怪しい行脚《あんぎゃ》の坊主《ぼうず》は、ちょうど雪の止んだのを幸い、小川通《おがわどお》りを下《くだ》って行きました。これが阿媽港甚内《あまかわじんない》なのです。侍《さむ
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