らぬと申し上げました。が、店のものにも暇《ひま》を出さず、成行きに任《まか》せていた所を見ると、それでも幾分か心待ちには、待っていたのでございましょう。また実際三日目の夜《よ》には、囲いの行燈《あんどん》に向っていても、雪折れの音のする度毎に、聞き耳ばかり立てて居りました。
 所が三更《さんこう》も過ぎた時分、突然茶室の外《そと》の庭に、何か人の組み合うらしい物音が聞えるではございませんか? わたしの心に閃《ひらめ》いたのは、勿論《もちろん》甚内の身の上でございます。もしや捕《と》り手《て》でもかかったのではないか?――わたしは咄嗟《とっさ》にこう思いましたから、庭に向いた障子《しょうじ》を明けるが早いか、行燈《あんどん》の火を掲《かか》げて見ました。雪の深い茶室の前には、大明竹《だいみんちく》の垂れ伏したあたりに、誰か二人|掴《つか》み合っている――と思うとその一人は、飛びかかる相手を突き放したなり、庭木の陰《かげ》をくぐるように、たちまち塀の方へ逃げ出しました。雪のはだれる音、塀に攀《よ》じ登る音、――それぎりひっそりしてしまったのは、もうどこか塀《へい》の外へ、無事に落ち延びたのでございましょう。が、突き放された相手の一人は、格別跡を追おうともせず、体の雪を払いながら、静かにわたしの前へ歩み寄りました。
「わたしです。阿媽港甚内《あまかわじんない》ですよ。」
 わたしは呆気《あっけ》にとられたまま、甚内の姿を見守りました。甚内は今夜も南蛮頭巾《なんばんずきん》に、袈裟法衣《けさころも》を着ているのでございます。
「いや、とんだ騒《さわ》ぎをしました。誰もあの組打ちの音に、眼を覚さねば仕合せですが。」
 甚内は囲《かこ》いへはいると同時に、ちらりと苦笑《くしょう》を洩《も》らしました。
「何、わたしが忍《しの》んで来ると、ちょうど誰かこの床《ゆか》の下へ、這《は》いこもうとするものがあるのです。そこで一つ手捕《てど》りにした上、顔を見てやろうと思ったのですが、とうとう逃げられてしまいました。」
 わたしはまださっきの通り、捕り手の心配がございましたから、役人ではないかと尋《たず》ねて見ました。が、甚内は役人どころか、盗人だと申すのでございます。盗人が盗人を捉《とら》えようとした、――このくらい珍しい事はございますまい。今度は甚内よりもわたしの顔に、自然と苦笑が浮びました。しかしそれはともかくも、調達の成否《せいひ》を聞かない内は、わたしの心も安まりません。すると甚内は云わない先に、わたしの心を読んだのでございましょう、悠々と胴巻《どうまき》をほどきながら、炉《ろ》の前へ金包《かねづつ》みを並べました。
「御安心なさい、六千貫の工面《くめん》はつきましたから。――実はもう昨日《きのう》の内に、大抵《たいてい》調達したのですが、まだ二百貫ほど不足でしたから、今夜はそれを持って来ました。どうかこの包みを受け取って下さい。また昨日《きのう》までに集めた金は、あなた方御夫婦も知らない内に、この茶室の床下《ゆかした》へ隠して置きました。大方《おおかた》今夜の盗人のやつも、その金を嗅《か》ぎつけて来たのでしょう。」
 わたしは夢でも見ているように、そう云う言葉を聞いていました。盗人に金を施《ほどこ》して貰う、――それはあなたに伺わないでも、確かに善い事ではございますまい。しかし調達が出来るかどうか、半信半疑の境《さかい》にいた時は、善悪も考えずに居りましたし、また今となって見れば、むげに受け取らぬとも申されません。しかもその金を受け取らないとなれば、わたしばかりか一家のものも、路頭《ろとう》に迷うのでございます。どうかこの心もちに、せめては御憐憫《ごれんびん》を御加え下さい。わたしはいつか甚内の前に、恭《うやうや》しく両手をついたまま、何も申さずに泣いて居りました。……
 その後《のち》わたしは二年の間《あいだ》、甚内の噂《うわさ》を聞かずに居りました。が、とうとう分散もせずに恙《つつが》ないその日を送られるのは、皆甚内の御蔭でございますから、いつでもあの男の仕合せのために、人知れずおん母「まりや」様へも、祈願《きがん》をこめていたのでございます。ところがどうでございましょう、この頃|往来《おうらい》の話を聞けば、阿媽港甚内《あまかわじんない》は御召捕《おめしと》りの上、戻《もど》り橋《ばし》に首を曝《さら》していると、こう申すではございませんか? わたくしは驚きも致しました。人知れず涙も落しました。しかし積悪の報《むくい》と思えば、これも致し方はございますまい。いや、むしろこの永年、天罰も受けずに居りましたのは、不思議だったくらいでございます。が、せめてもの恩返しに、陰《かげ》ながら回向《えこう》をしてやりたい。――こう思ったものでご
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