誰か話をしては、泣いている声が聞えるのです。誰か、――と云うよりもそれは二度と聞かずに、女だと云う事さえわかりました。こう云う大家《たいけ》の茶座敷に、真夜中女の泣いていると云うのは、どうせただ事ではありません。わたしは息をひそめたまま、幸い明いていた襖《ふすま》の隙《すき》から、茶室の中を覗《のぞ》きこみました。
行燈《あんどん》の光に照された、古色紙《こしきし》らしい床《とこ》の懸け物、懸け花入《はないれ》の霜菊《しもぎく》の花。――囲《かこ》いの中には御約束通り、物寂びた趣が漂っていました。その床の前、――ちょうどわたしの真正面《ましょうめん》に坐った老人は、主人の弥三右衛門《やそうえもん》でしょう、何か細《こま》かい唐草《からくさ》の羽織に、じっと両腕を組んだまま、ほとんどよそ眼に見たのでは、釜の煮《に》え音でも聞いているようです。弥三右衛門の下座《しもざ》には、品《ひん》の好《い》い笄髷《こうがいまげ》の老女が一人、これは横顔を見せたまま、時々涙を拭っていました。
「いくら不自由がないようでも、やはり苦労だけはあると見える。」――わたしはそう思いながら、自然と微笑を洩《も》らしたものです。微笑を、――こう云ってもそれは北条屋《ほうじょうや》夫婦に、悪意があったのではありません。わたしのように四十年間、悪名《あくみょう》ばかり負っているものには、他人の、――殊に幸福らしい他人の不幸は、自然と微笑を浮ばせるのです。(残酷な表情)その時もわたしは夫婦の歎きが、歌舞伎《かぶき》を見るように愉快だったのです。(皮肉な微笑)しかしこれはわたし一人に、限った事ではありますまい。誰にも好まれる草紙《そうし》と云えば、悲しい話にきまっているようです。
弥三右衛門はしばらくの後《のち》、吐息《といき》をするようにこう云いました。
「もうこの羽目《はめ》になった上は、泣いても喚《わめ》いても取返しはつかない。わたしは明日《あす》にも店のものに、暇《ひま》をやる事に決心をした。」
その時また烈しい風が、どっと茶室を揺《ゆ》すぶりました。それに声が紛《まぎ》れたのでしょう。弥三右衛門の内儀《ないぎ》の言葉は、何と云ったのだかわかりません。が、主人は頷《うなず》きながら、両手を膝の上に組み合せると、網代《あじろ》の天井へ眼を上げました。太い眉《まゆ》、尖った頬骨《ほおぼね》、殊
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