くらい》めが! 親孝行でもしろ!」
わたしは二度目に蹴倒された時、急に口惜《くや》しさがこみ上げて来ました。
「よし! きっと恩になるな!」
しかし甚内は見返りもせず、さっさと雪路《ゆきみち》を急いで行きます。いつかさし始めた月の光に網代《あじろ》の笠《かさ》を仄《ほの》めかせながら、……それぎりわたしは二年の間《あいだ》、ずっと甚内を見ずにいるのです。(突然笑う)「甚内は貴様なぞの恩は受けぬ」……あの男はこう云いました。しかしわたしは夜《よ》の明け次第、甚内の代りに殺されるのです。
ああ、おん母「まりや様!」わたしはこの二年間、甚内の恩を返したさに、どのくらい苦しんだか知れません。恩を返したさに?――いや、恩と云うよりも、むしろ恨《うらみ》を返したさにです。しかし甚内はどこにいるか? 甚内は何をしているか?――誰にそれがわかりましょう? 第一甚内はどんな男か?――それさえ知っているものはありません。わたしが遇《あ》った贋雲水《にせうんすい》は四十前後の小男です。が、柳町《やなぎまち》の廓《くるわ》にいたのは、まだ三十を越えていない、赧《あか》ら顔に鬚《ひげ》の生えた、浪人だと云うではありませんか? 歌舞伎《かぶき》の小屋を擾《さわ》がしたと云う、腰の曲った紅毛人《こうもうじん》、妙国寺《みょうこくじ》の財宝《ざいほう》を掠《かす》めたと云う、前髪の垂れた若侍、――そう云うのを皆甚内とすれば、あの男の正体《しょうたい》を見分ける事さえ、到底《とうてい》人力には及ばない筈です。そこへわたしは去年の末から、吐血《とけつ》の病に罹《かか》ってしまいました。
どうか恨《うら》みを返してやりたい、――わたしは日毎に痩《や》せ細りながら、その事ばかりを考えていました。するとある夜わたしの心に、突然|閃《ひらめ》いた一策があります。「まりや」様! 「まりや」様! この一策を御教え下すったのは、あなたの御恵みに違いありません。ただわたしの体を捨てる、吐血《とけつ》の病に衰え果てた、骨と皮ばかりの体を捨てる、――それだけの覚悟をしさえすれば、わたしの本望は遂げられるのです。わたしはその夜《よ》嬉しさの余り、いつまでも独り笑いながら、同じ言葉を繰返していました。――「甚内の身代《みがわ》りに首を打たれる。甚内の身代りに首を打たれる。………」
甚内の身代りに首を打たれる――何と
前へ
次へ
全19ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング