あまかわじんない》と呼ばれるでしょう。わたしがあの阿媽港甚内、――これほど愉快《ゆかい》な事があるでしょうか? 阿媽港甚内、――どうです? 好《い》い名前ではありませんか? わたしはその名前を口にするだけでも、この暗い牢《ろう》の中さえ、天上の薔薇《ばら》や百合《ゆり》の花に、満ち渡るような心もちがします。
忘れもしない二年|前《ぜん》の冬、ちょうどある大雪の夜《よる》です。わたしは博奕《ばくち》の元手《もとで》が欲しさに、父の本宅へ忍びこみました。ところがまだ囲いの障子《しょうじ》に、火影《ほかげ》がさしていましたから、そっとそこを窺《うかが》おうとすると、いきなり誰か言葉もかけず、わたしの襟上《えりがみ》を捉《とら》えたものがあります。振り払う、また掴《つか》みかかる、――相手は誰だか知らないのですが、その力の逞《たくま》しい事は、到底ただものとは思われません。のみならず二三度|揉《も》み合う内に、茶室の障子が明《あ》いたと思うと、庭へ行燈《あんどん》をさし出したのは、紛《まぎ》れもない父の弥三右衛門《やそうえもん》です。わたしは一生懸命に、掴《つか》まれた胸倉《むなぐら》を振り切りながら、高塀の外へ逃げ出しました。
しかし半町《はんちょう》ほど逃げ延びると、わたしはある軒下《のきした》に隠れながら、往来の前後を見廻しました。往来には夜目にも白々《しろじろ》と、時々雪煙りが揚《あが》るほかには、どこにも動いているものは見えません。相手は諦《あきら》めてしまったのか、もう追いかけても来ないようです。が、あの男は何ものでしょう? 咄嗟《とっさ》の間《あいだ》に見た所では、確かに僧形《そうぎょう》をしていました。が、さっきの腕の強さを見れば、――殊に兵法にも精《くわ》しいのを見れば、世の常の坊主ではありますまい。第一こう云う大雪の夜《よ》に、庭先へ誰か坊主《ぼうず》が来ている、――それが不思議ではありませんか? わたしはしばらく思案した後《のち》、たとい危《あぶな》い芸当にしても、とにかくもう一度茶室の外へ、忍び寄る事に決心しました。
それから一時《いっとき》ばかりたった頃《ころ》です。あの怪しい行脚《あんぎゃ》の坊主《ぼうず》は、ちょうど雪の止んだのを幸い、小川通《おがわどお》りを下《くだ》って行きました。これが阿媽港甚内《あまかわじんない》なのです。侍《さむ
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