った夜《よ》、甚内と庭に争っていた、誰とも知らぬ男の姿が、急にはっきり浮んで参りました。あの男は誰だったのでございましょう? もしや倅ではございますまいか? そう云えばあの男の姿かたちは、ちらりと一目見ただけでも、どうやら倅の弥三郎に、似ていたようでもございます。しかしこれはわたし一人の、心の迷いでございましょうか? もし倅だったとすれば、――わたしは夢の覚めたように、しけじけ首を眺めました。するとその紫ばんだ、妙に緊《しま》りのない唇《くちびる》には、何か微笑《ほほえみ》に近い物が、ほんのり残っているのでございます。
 曝《さら》し首に微笑が残っている、――あなたはそんな事を御聞きになると、御哂《おわら》いになるかも知れません。わたしさえそれに気のついた時には、眼のせいかとも思いました。が、何度見直しても、その干《ひ》からびた唇には、確かに微笑らしい明《あかる》みが、漂《ただよ》っているのでございます。わたしはこの不思議な微笑に、永い間《あいだ》見入って居りました。と、いつかわたしの顔にも、やはり微笑が浮んで参りました。しかし微笑が浮ぶと同時に、眼には自然と熱い涙も、にじみ出して来たのでございます。
「お父《とう》さん、勘忍《かんにん》して下さい。――」
 その微笑は無言の内に、こう申していたのでございます。
「お父さん。不孝の罪は勘忍して下さい。わたしは二年以前の雪の夜《よる》、勘当《かんどう》の御詫《おわ》びがしたいばかりに、そっと家《うち》へ忍《しの》んで行きました。昼間は店のものに見られるのさえ、恥《はずか》しいなりをしていましたから、わざわざ夜《よ》の更《ふ》けるのを待った上、お父さんの寝間《ねま》の戸を叩《たた》いても、御眼にかかるつもりでいたのです。ところがふと囲《かこ》いの障子に、火影《ほかげ》のさしているのを幸い、そこへ怯《お》ず怯《お》ず行きかけると、いきなり誰か後《うしろ》から、言葉もかけずに組つきました。
「お父さん。それから先はどうなったか、あなたの知っている通りです。わたしは余り不意だったため、お父さんの姿を見るが早いか、相手の曲者《くせもの》を突き放したなり、高塀《たかべい》の外へ逃げてしまいました。が、雪明《ゆきあか》りに見た相手の姿は、不思議にも雲水《うんすい》のようでしたから、誰も追う者のないのを確かめた後《のち》、もう一度あの
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