いる暇はありません。ただどうか阿媽港甚内《あまかわじんない》は、世間一般の人間と余り変りのない事を信じて下さい。そうですか? では出来るだけ手短かに、わたしの用向きを述べる事にしましょう。わたしはある男の魂のために、「みさ」の御祈りを願いに来たのです。いや、わたしの血縁のものではありません。と云ってもまたわたしの刃金《はがね》に、血を塗ったものでもないのです。名前ですか? 名前は、――さあ、それは明かして好《い》いかどうか、わたしにも判断はつきません。ある男の魂のために、――あるいは「ぽうろ」と云う日本人のために、冥福《めいふく》を祈ってやりたいのです。いけませんか?――なるほど阿媽港甚内に、こう云う事を頼まれたのでは、手軽に受合う気にもなれますまい。ではとにかく一通り、事情だけは話して見る事にしましょう。しかしそれには生死を問わず、他言《たごん》しない約束が必要です。あなたはその胸の十字架《くるす》に懸けても、きっと約束を守りますか? いや、――失礼は赦《ゆる》して下さい。(微笑)伴天連《ばてれん》のあなたを疑うのは、盗人《ぬすびと》のわたしには僭上《せんじょう》でしょう。しかしこの約束を守らなければ、(突然|真面目《まじめ》に)「いんへるの」の猛火に焼かれずとも、現世《げんぜ》に罰《ばち》が下《くだ》る筈です。
もう二年あまり以前の話ですが、ちょうどある凩《こがらし》の真夜中です。わたしは雲水《うんすい》に姿を変えながら、京の町中《まちなか》をうろついていました。京の町中をうろついたのは、その夜《よ》に始まったのではありません。もうかれこれ五日ばかり、いつも初更《しょこう》を過ぎさえすれば、必ず人目に立たないように、そっと家々を窺《うかが》ったのです。勿論何のためだったかは、註を入れるにも及びますまい。殊にその頃は摩利伽《まりか》へでも、一時渡っているつもりでしたから、余計に金《かね》の入用もあったのです。
町は勿論とうの昔に人通りを絶っていましたが、星ばかりきらめいた空中には、小《お》やみもない風の音がどよめいています。わたしは暗い軒通《のきづた》いに、小川通《おがわどお》りを下《くだ》って来ると、ふと辻を一つ曲《まが》った所に、大きい角屋敷《かどやしき》のあるのを見つけました。これは京でも名を知られた、北条屋弥三右衛門《ほうじょうややそうえもん》の本宅で
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